2019年08月02日

食い尽くされる地球と高度自給自足時代の夜明け


食い尽くされる地球と高度自給自足時代の夜明け
2017/08/28 16:28

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今回は世界史ではあたかもヨーロッパのキリスト教徒が世界を開拓したように教えられていますが、実はその前からユダヤ人が世界に散らばり世界経済を回していたという事を書きます。

今、アメリカでコロンブスの銅像にペンキがかけられたり、米南部バージニア州シャーロッツビルで起きた白人至上主義者と反対派の衝突事件を受け、奴隷制度存続を訴えた南北戦争時の南軍兵士像を撤去する動きが起きています。

はじめにWikipediaの大航海時代があまりにも秀悦でコンパクトに世界史をまとめているのでその記事から。

古代の国際交流

古代ギリシャ人は、地中海周辺とエジプトさらにアケメネス朝ペルシャが支配するオリエントの一部を世界として認識していた。アレクサンドロス3世(大王)の東方遠征によって、ギリシャ人の世界観はインド・中国までに一気に広がった。アレキサンドロス3世がペルシャの皇女を娶ったことに象徴されるように、アレキサンドロス3世の帝国ではコスモポリタニズムが標榜され、遠隔地に住む人々同士の交流が盛んに行われ、その伝統はディアドコイ達が建国した国々やギリシャ文化の影響を強く受けた古代ローマにも受け継がれた。

パックス・ロマーナの下、整備された航路や道路を使って盛んに遠隔地交易が行われ、地中海地域や中東地域をはじめ遠く極東からも珍しい商品がローマにもたらされた。多様な人種・民族が奴隷となり或いは傭兵となり、またある人々はローマの富を求めて流入し、国際間の交流は益々増加して行った。

中東・インド・中国でも強力な世界帝国[5]が成立し、その影響下にある国々の間で盛んに交易が行われ、多数の交易路や航路が開拓整備された。アフリカ地域でも古代エジプトのほか、大陸奥部にも王国が成立し、塩や金が大陸を行き交った。このように各地域で発展した交易圏は、時代とともに互いに接触を深め、旧世界においては世界的交易ネットワークが徐々に構築されていった。

ヨーロッパの停滞と復興

ローマ帝国が衰退すると、未開人といわれたゲルマン人やノルマン人が相次いでヨーロッパを侵し、またイスラム勢力がイベリア半島に侵入し、ヨーロッパは混乱と停滞の時代を迎える。やがて西ローマ帝国領土であった現在のイタリア・フランス・ドイツでは、カトリックを精神的支柱とするフランク王国が出現した。フランク王国はゲルマンの伝統を色濃く残していたが、ローマの遺産も尊重し継承した。ようやく安定がもたらされた西ヨーロッパの経済が活性化し富が蓄積され、フランク王国はトゥール・ポワティエ間の戦いでイスラムの北進を阻んだ。ペストの流行や気候寒冷化による混乱の中で暗黒時代を経験した中世ヨーロッパであったが、数世紀を経てゲルマン人やノルマン人の国家が淘汰・洗練され、徐々に力をつけていった。西暦1000年頃、ヴァイキングと呼ばれていたノース人がヴィンランド(ニューファンドランド島)のランス・オ・メドーに到達した記録が『赤毛のエイリークのサガ』や『グリーンランド人のサガ』に記録されている。しかし、先住民スクレリングの激しい抵抗に遭い、10年ほどで放棄した。

十字軍

11世紀後半セルジューク朝トルコがパレスチナを占領する。セルジューク朝トルコの脅威を受けて東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスは聖地回復を大義名分に、ローマ教皇・ウルバヌス2世に支援を求めた。ヨーロッパ各地に十字軍の結成が呼びかけられ多数の王侯貴族や民衆がこれに応じた。

多くの者が殉教精神から十字軍に参加したが、教皇は東方教会への影響力拡大を望み、王侯貴族はイスラムの領土や富の収奪、さらに交易が盛んな文化国家東ローマ帝国への影響力行使を望んだ。

狂信者や野心家、無頼漢までも含む十字軍は、1096年、聖戦の名の下に東方へ進軍した。利害対立によって抗争をくり返していたイスラム勢力を撃破しながら、パレスチナやその周辺を占領し複数のキリスト教国家を建設したが、寄せ集め勢力の十字軍もまた主導権争いに明け暮れ、ローマ法王や東ローマ帝国との対立も深まり、混迷の様相を呈した。利権をめぐって『敵の敵は味方』とばかり、十字軍勢力とイスラム勢力が同盟する事態さえ発生した。

また十字軍によるイスラム教徒・ユダヤ教徒など異教徒への激しい弾圧が民衆の抵抗を招き、長引く戦争によって十字軍内の士気は低下し、堕落と厭戦気分が蔓延した。さらに十字軍遠征による戦費調達は重くヨーロッパ各国民衆にのしかかり、熱狂的殉教精神も次第に沈静化していった。

サラディーンによる反撃から約1世紀、1291年、十字軍は最後の拠点であったアッコンを失い、聖地から地中海に追い落とされてしまう。

国際交流の発展

軍事的に失敗した十字軍遠征ではあったが、戦争によって東西交流はより発展した。ヨーロッパから鉱物資源や毛織物等が、イスラムから香辛料や絹等が、今まで以上に東西間で交易されるようになった。それによってヨーロッパとオリエントの間に位置する東ローマ帝国やイタリア諸都市国家の経済成長が顕著になる。ことにイタリアでは東西交易に伴い、東ローマ帝国の保存していた古代ギリシアの哲学・科学や、イスラム諸国からの当時世界最高水準にあったイスラム文化やイスラム科学が紹介され、しかも十字軍失敗によってローマ教皇の権威が低下し、宗教戒律に疑問を持った人々の中からルネッサンス運動が開始されて近代への扉が開けられた。

モンゴル帝国が興ったころ、東方のキリスト教徒プレスター・ジョンが大軍を率いてイスラムを攻撃するという噂がヨーロッパに広まった。プレスター・ジョン確認のためにローマ教皇や西ヨーロッパ各国は、国情視察も兼ね同盟や交易を求めて東方に使節を派遣した。

そしてプラノ・カルピニの使節はカラコルムに達し、1245年、グユクハーンと謁見を果たした。そこはプレスター・ジョンの国ではなかったが、宗教や異民族に比較的寛容なモンゴル人はヨーロッパ人を受け入れ、パックスモンゴリカの下でイタリア商人やイスラム商人が頻繁に東アジアを訪れるようになり、カラコルムや大都などの主要都市に長期滞在する者さえ現れた。

中でもマルコ・ポーロは約20年にわたって行われた旅行体験をルスティケロ・ダ・ピサへ口述し、ピサが『東方見聞録』として著しヨーロッパに広まった。イスラム諸国、インド、中国、ジパングについての記述が、プレスター・ジョン伝説とともにヨーロッパ人の世界への好奇心を掻き立てた。

大航海時代の変遷

海外進出

「重商主義」も参照

15世紀、モンゴル帝国が衰退すると、強力な官僚機構と軍事機構をもったオスマン朝トルコが1453年ビザンツ帝国を滅ぼし、イタリア諸都市国家の連合艦隊にも勝利して地中海の制海権を獲得した。東西の中間に楔を打つオスマン朝は、地中海交易を支配し高い関税をかけた。旧来の経済秩序が激変し、新たな交易ルートの開拓がヨーロッパに渇望されるようになる。とはいえそオスマン帝国の進出後もベネチアによるオスマン帝国との地中海貿易は続き、16世紀後半から17世紀にかけてまた隆盛し一時はポルトガルのインドルートをしのぐほどになるので、オスマンの進出がどの程度地中海貿易に影響与えたかははっきりしていない。

ポルトガルやスペインはもともと地中海貿易のはずれにあったので地中海貿易による恩恵がうすかった。ベネチアは東地中海においてイスラム諸国との貿易をほぼ独占していた。イベリア諸国はベネチアと対立していたジェノヴァ商人が大きな影響力をもち彼らがベネチアの地中海貿易に対抗して両国の西部進出に出資した。特にポルトガルは西のはずれにあり地中海貿易、北海・バルト海貿易の恩恵も受けることができなかったので必然的に進出先は西アフリカになったのである。

一方、15世紀半ばオスマン朝が隆盛を極めつつあったころ、ポルトガルとスペイン両国では国王を中核として、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐しようとしていた(レコンキスタ)。長い間イスラムの圧迫を受けていたポルトガルとスペインでは民族主義が沸騰し、強力な国王を中心とした中央集権制度が他のヨーロッパ諸国に先駆けて確立した。

また、このころ頑丈なキャラック船やキャラベル船が建造されるようになり、羅針盤がイスラムを介して伝わったことから外洋航海が可能になった。ポルトガルとスペインは後退するイスラム勢力を追うように北アフリカ沿岸に進出した。

新たな交易ルートの確保、イスラム勢力の駆逐、強力な権力を持つ王の出現、そして航海技術の発展、海外進出の機会が醸成されたことで、ポルトガル・スペイン両国は競い合って海に乗り出して行った。

初期の航海では遭難や難破、敵からの襲撃、壊血病や疫病感染などによって、乗組員の生還率は20%にも満たないほど危険極まりなかった。しかし遠征が成功して新航路が開拓され新しい領土を獲得するごとに、海外進出による利益が莫大であることが立証された。健康と不屈の精神そして才覚と幸運に恵まれれば、貧者や下層民であっても一夜にして王侯貴族に匹敵するほどの富と名声が転がり込んだ。こうした早い者勝ち の機運が貴賎を問わず人々の競争心を煽り立て、ポルトガル・スペイン両国を中心にヨーロッパに航海ブームが吹き荒れるようになった。

またローマ教皇も海外侵略を強力に後援した。16世紀初頭から宗教改革の嵐に晒されていたカトリック教会は相次いで成立したプロテスタント諸派に対抗するため、海外での新たな信者獲得を計画し、強固なカトリック教国であるポルトガル・スペイン両国の航海に使命感溢れる宣教師を連れ添わせ、両国が獲得した領土の住民への布教活動を開始した。

Wikipedia以上

ポルトガル、スペインから始まったヨーロッパ人による世界制服。

しかしユーラシア大陸ではすでに中国まで交流があり、さらには日本まで到達したユダヤ人の広域な経済圏がありました。

そこにはユダヤの失われた氏族の広がりが大きく関係しています。

この後、1000年以上後にヨーロッパのキリスト教徒はアメリカ大陸、アフリカ大陸に進出して行きます。

そうです、ヨーロッパ人による世界進出はユダヤ人の後追いなんです。

それがイエズス会と東インド会社です。

東インド会社とイエズス会は共に16世紀世界をまたにかけた貿易商でライバルと言うのが表向き。

しかし実態は、ヘッセン・コンツェルンの外商1課と2課です。

競わせ成績を上げさせた。

しかし、以前説明したアラゴン王国‐スペインの出来あがる頃、ロンバルディアの流れを知らなければ、頭が一つである事は誰にも分かりません。

カール大帝血筋と婚姻関係になるのがヴェルフ家です。

西ローマ帝国から続く千年王国復興の根源。

ランゴバルド王国がロンバルディアの由来。

王国が存在した2世紀の間、Aの東側をアウストリア公国、西側をネウストリア公国、Bの北部をスポレート公国、南部をベネヴェント公国と呼んだ。

フランク王国領になる前から宗教的には、カソリック化が進んだ。

しかしイタリア半島南端、サルディーニャ島、シシリー島等は、東ローマ帝国領のまま残った。

この勢力の仕切りで、教皇をコントロールしようと教皇派、皇帝派にわかれて争った時代が欧州で長く、免罪符をフッガー家と共謀し発行、民衆を苦しめた結果、マルティン・ルターが出てくる。

それがプロテスタントになって行く。

この流れで、米国独立戦争、南北戦争、日本の明治維新へと繋がる訳で、産業革命に応じて武器が変化する度に、傭兵、兵器売買を仕切って来た訳です。

ローマ教皇を後ろから操る手法と、カラスが天皇を後ろから操る手法の共通性。

江戸期に国際勢力が日本を操っていた事。

教皇を操って来た勢力、つまりメロビング=カール、ヴェルフ、ヘッセンの流れなのです。

貿易面では、イエズス会と後の東インド会社を正反合で競わせ、後ろから操った。

東インド会社の資本は、ロンバルディア―ロンドンの流れから継承されています。

ロンバルディアは第2回十字軍遠征の軍備調達の資金の為、銀行が設置された場所です。

この当時十字軍遠征は教皇の呼びかけで始まりました。

戦利品を持ち帰るのが面倒だったわけです。

ユダヤ人達の中で、欧州征服を金融面からして行こうと言う勢力がロンバルディアに結集したという意味です。

その為に十字軍と云う大義名分は必要だった。

キリスト教の一神教教義も必要だった。

他の宗教を悪とし、戦争を続けるには都合が良かった。

要するに、十字軍の遠征に伴い、軍費を準備する金融制度も普及された訳です。

ロンバルディアでの第2回十字軍遠征の軍備調達の資金の為の銀行は、サヴォイ家が命令。

この欧州中世史の中で、現在の国際金融の基礎が出来上がって来た訳です。

それからずっと現在まで基本的には変わっていませんが、例のベルファシの地下50メートルの金塊を押さえたことで国際秩序維持派がベルファシの計画を水際で阻止しています。

ポルトガル・スペインからオランダ、イギリスと覇権が移り、今はアメリカの時代。

そして次は中国なんだと。

国際金融資本がそう言っています。

中国には13億5千万人以上の人口がいるわけです。

AIIBに加入したり、イギリスをはじめとするヨーロッパ各国は中国びいきですよね?

でも本音は中国びいきじゃなくて、中国市場を利用しているだけ。

そしてインド市場も。

どちらも商売人が多い国。

昔は中国、インド、東南アジアから明らかな搾取をしてきましたが、今回は隠然ヴェルヴェットな搾取をしています。

中国はここ200年間、イギリスにいいように使われてきました。

イギリスは今でも香港、シンガポールを拠点に大活躍されております。

ところで前回書きました、ジャーディン・マセソン=ケズウィック家ですが、その時代に活躍(?)した重要な政治家がいます。

アジアの4大国家、オスマン帝国、ペルシャ王国、ムガール帝国、清を植民地化した大物。

第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルです。

この人はヴィクトリア女王が父親のように慕った、第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラムの義弟です。

メルバーンはホイッグ党で、オラニエ・ナッサウのオランダ総督ウィレム3世とつながりますが、この辺は別の機会に書きます。

アヘン戦争の頃からアジア諸国を苦しめていたのはマウントバッテンではなく、パーマストン卿を代表とする自由貿易帝国主義者たちでした。

マウントバッテンはもう少し後の時代にイギリスに移住します(後述)。

その前はオラニエ・ナッサウとしてが先にいたわけです。

これもヘッセンだということは以前書きました。

ヘッセン=カッセル方伯カールとクールラント公女マリア・アンナ・アマーリアの一人娘として生まれた、マリア・ルイーゼ・ファン・ヘッセン=カッセルはオラニエ公ヨハン・ウィレム・フリーゾの妃。

オラニエ公ヨハン・ウィレム・フリーゾは、イングランド王を兼ねていた本家のオランダ総督・オラニエ公ウィレム3世には実子がいなかったため、オラニエ=ナッサウ家の相続人にも指名されていた。

ところが、ウィレム3世が1702年に死去すると、ヨハン・ウィレム・フリーゾの継承に対して、前年の1701年にプロイセンの王に即位したフリードリヒ1世が異議を唱え、即位できませんでした。

その息子ウィレム4世がグレートブリテン王兼ハノーファー選帝侯ジョージ2世の長女アンと結婚。


話を戻します。


第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルはヴィクトリア女王に嫌われていました。

何故なら、女王の承認無しで、勝手な行動をとっていたからです。

自国の利益=ヴィクトリア女王の利益のために頑張ったのに嫌われていた。

そう、イギリスはヴィクトリア女王の時代に大英帝国を築き上げたのですが、必ずしもヴィクトリアの指示ではなかったことがわかります。

イギリスを巨大にしたのはパーマストンと絡むユダヤ人、そしてイギリスと結託した中国人(客家=ペリシテ人)なのです。

私はアヘン戦争のきっかけは清国側のスパイの自作自演にあると考えています。

いや、イギリス側に取り付いた中国人の存在を指摘します。

アヘンを規制したら、そりゃイギリスは怒りますよね。

アメリカの禁酒法も同じですが、禁止すれば密輸がメインになり、密輸が始まればマフィア(客家)が儲かる。

清国側にイギリスと結託した派閥がいた。

奴隷売買も列強は自ら表面には出ないで、現地のアフリカ人にやらせていました。

どんな搾取ビジネスでも必ず現地の人間を抱き込んでそいつらにやらせる。

インドネシアのオランダ統治もインドネシア人の管理は現地の中国系がやっていました。

洪秀全、李秀成といった客家人が起こした太平天国の乱。

これでイギリスと結託して当時の中国に明治維新のような市場開拓を仕掛けました。

イギリスは清国に内戦を仕組み、最後は洪秀全の太平天国の台頭を抑え、今度は清国側につき太平天国を潰します。

自由貿易帝国主義

パーマストンは、帝国主義時代の前夜の1840年代から1860年代にイギリス政府が盛んに行った「自由貿易帝国主義」を代表する人物である。「自由貿易帝国主義」とは低開発国を砲艦外交で脅迫して、そうした国々で取られている鎖国体制を取り払わせ、不平等条約による自由貿易を押し付けてイギリスの非公式帝国に組み込む政策である。

この時代のイギリスの政界や論壇では植民地放棄的な小英国主義論(英語版)が盛んだったが、実際にイギリス外交を主導したのは自由貿易帝国主義者パーマストンであったので、小英国主義が実施されることはほとんどなかった(それが実施されるのはカナダやオーストラリアなど白人が大量に移住した植民地だけだった)。この時代にもイギリス政府は盛んにインド周辺地域(パンジャブ、シンド、ビルマなど)に領土拡大を図り、それ以外の地域の低開発国に対しては砲艦外交で不平等条約締結を迫った。そこには後の帝国主義への萌芽が見て取れる。

植民地化・半植民地化される低開発国にパーマストン子爵が関心をもつことはなかった。植民地に関する閣議が終わってから、閣議で話題になっていた国はどこにある国なのか他人に聞くような有様だったという。

イギリスのためならアジア諸国はどうでも良いというやり方。

1960年代に入ってジョン・ギャラハーとロナルド・ロビンソンは、共著論文「自由貿易帝国主義」において、この時期の非西欧地域に対するイギリスの進出政策には2つの形式が存在していたと主張した。

すなわち一つは「公式帝国」(Formal Empire)であり、植民地化あるいは直接の支配であり、もう一つは「非公式帝国」(Informal Empire)であり、植民地化まで至らない、主として経済進出の形で現れた影響力の拡大である。

そして対外進出の経費を考慮し、できる限り相手国とは不平等条約などを通じた自由貿易を追求し、それが相手国の排外的態度などにより不可能であると判断された場合は、戦争など武力介入を通じて直接支配のもとでの貿易が行われていたとした。


でも、国益を優先したということで国民はもちろんのこと、故・中川昭一氏からも尊敬されています。


日本人は香港が国際的にどれだけの役割を果たしているか分かってません。

香港はベルファシのオンパレードです。

前身は東インド会社で、元は貿易商社。1832年、スコットランド出身のイギリス東インド会社元船医で貿易商人のウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンにより、中国の広州(沙面島)に設立された。中国語名は「怡和洋行」。当時、広州は広東システム体制下、ヨーロッパ商人に唯一開かれた貿易港であった。ウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンは陳舜臣の小説『阿片戦争』では重要なキャラクターとして登場している。

設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出。香港上海銀行(HSBC)は、ジャーディン・マセソンなどが香港で稼いだ資金をイギリス本国に送金するために設立された銀行である。

清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われたアヘン戦争に深く関わっている。アヘンの輸入を規制しようとする清朝政府とイギリスの争いが起こった際に、当時のアヘン商人の一つであるジャーディン・マセソン商会のロビー活動により、イギリス本国の国会は9票という僅差で軍の派遣を決定した。


経済ではHSBC(香港上海銀行)は麻薬利権の上がりを英国に送っていた銀行です。

忘れてはいけないのがサッスーン。

インドのケシ畑は有名。

これをイギリスが来る前から仕切っていたのがバグダット出身でインドでケシの先買権を獲得し香港まで流れてきたサッスーン。

欧米の商社が業務を拡大し、取引金額が増えるに従い、なにより頭を悩ませたのは資金の安全な輸送方法。

そこで設立されたのがHSBC銀行です。

1856年3月、サッスーン洋行、ジャーディン・マセソン商会、デント商会、ラッセル商会らは15人の代表発起人を決め、資本金500万ドルを投じて香港に香港上海銀行(HSBC)を設立。

サッスーン・グループのアーサー・サッスーンら8人が理事会役員。

HSBC=香港上海銀行の最大の業務は、アヘン貿易で儲けた資金を安全かつ迅速にイギリス本国へ送金することでした。

要は、イギリスがユダヤ人サッスーンと結託し、軍隊を遣って因縁をつけて奪った市場が中国です。

インドの最後の総督がマウントバッテン。

今のイギリス王室の成員、イギリス女王エリザベス2世の夫エディンバラ公フィリップ王配。

次期王位継承者・チャールズの実父。

このマウントバッテンがヘッセン家の出自であること。

ロスチャイルドもヘッセン家の金庫番だったこと。

現在の世界の黒幕はヘッセンだということ。

エディンバラ公フィリップ王配の親父はアンドレアスギリシャ王で奥さんはアリス・オブ・バッテンバーグ

初代ミルフォード=ヘイヴン侯爵ルイス・アレグザンダー・マウントバッテンとその妻であるヘッセン大公女ヴィクトリアの長女として、ウィンザー城で生まれた。

ヘッセン大公ルートヴィヒ4世と最初の妃であるイギリス王女アリスの子供。

アリスは、ヴィクトリア女王とアルバート公の次女。

フィリップの親父であるアンドレアスの親父はゲオルギオス1世でギリシャ王。

その親父はクリスチャン9世でデンマーク王で、嫁さんはルイーゼ・フォン・ヘッセン=カッセル。

クリスチャン9世の母親はヘッセン=カッセル公女ルイーゼ・カロリーネ。

フィリップの兄妹のうち2名がヘッセンと結婚。

* セシリア(1911年 - 1937年) - ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒの長男ゲオルク・ドナトゥスと結婚。飛行機事故で他界。
* ソフィア(1914年 - 2001年) - ヘッセン=カッセル公子クリストフと結婚。のちハノーファー王子ゲオルク・ヴィルヘルムと再婚。

マウントバッテンは、スキャンダルの末、生まれたアレクサンダー・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットから始まります。

ヘッセン大公ルートヴィヒ2世とその妃ヴィルヘルミーネの四男(第5子)として、ダルムシュタットで生まれた。大公の子供たちのうち、アレクサンダーとマリー(のちのロシア皇后マリア)の2人は、母ヴィルヘルミーネとその愛人アウグスト・ルートヴィヒ・フォン・スナルクラン・ド・グランシー男爵との不義の子供だった。

母ヴィルヘルミーネとその愛人でスイス出身の軍人アウグスト・ルートヴィヒ・フォン・スナルクラン・ド・グランシーの間に生まれたのがアレクサンダー・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット。

アレクサンダー・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットにヘッセンの血は入っていません。

なので母親にはバッテンブルグ伯爵夫人という称号を与えました。

アレクサンダー・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットと母、ユリア・テレーザ・ハウケはイギリスに帰化しました。

ヘッセン大公ルートヴィヒ3世の弟アレクサンダー大公子がユリア・テレーザ・ハウケと貴賤結婚した際、ユリアがルートヴィヒ3世からバッテンベルク伯爵夫人(Gräfin von Battenberg、後に侯爵夫人)の称号を与えられたのが始まりである。「バッテンベルク」の名はヘッセン大公の邸宅の一つがあったバッテンベルク (エーダー) に由来する。アレクサンダーとユリアの子供たちにはバッテンベルク侯爵(夫人)の称号が与えられたが、ヘッセン大公家の継承権は与えられなかった。

アレクサンダーとユリアの長男ルートヴィヒ・アレクサンダーは醜聞となった結婚にもかかわらず、バッテンベルク家の者はヨーロッパ貴族の中に受け入れられ、イギリスに帰化し、英語読みでルイス・アレグザンダー・バッテンバーグと名乗っていたが、第一次世界大戦中のイギリスにおける反独感情から、英語風にマウントバッテン(Mountbatten)と改姓した。

アレクサンダーの長男のバッテンベルク公ルートヴィヒミルフォード・ヘイヴン侯爵に叙された。

初代侯の次男ルイス・マウントバッテンは初代マウントバッテン・オブ・ビルマ伯爵に叙された。

主家のヘッセン大公家を通じてヨーロッパの王侯と面識を持てたハインリヒは、兄ルートヴィヒ・アレクサンダー(初代ミルフォード=ヘイヴン侯ルイス・アレグザンダー・マウントバッテン)とヘッセン大公女ヴィクトリアの結婚式に出席した際、イギリス王女ベアトリスに見そめられた。1885年7月23日、2人はワイト島で結婚。同日にベアトリスの母ヴィクトリア女王によって、ヘンリーの称号が妻と同様の「殿下」(Royal Highness)に引き上げられた。この称号が有効なのは大英帝国の中だけであって、国外では以前の公子のままであった。女王は彼をガーター騎士にした。ヘンリーはイギリス陸軍大佐、カリスブルック城(ワイト島)の城代となった。

アレクサンダーの次男アレクサンダーはブルガリア公となった。

三男のヘンリー・モーリス・オブ・バッテンバーグはガーター騎士になった。

しかしHSBCはロスチャイルドではなく包(パオ)だということは以前書きました。

1866年に香港上海銀行(日本支店)を横浜に開設して以来、日本では最も長い歴史を持つ外資系銀行である。東京と大阪に支店を置き、事業法人を対象とした業務を行っているが、個人相手の業務からは撤退している。包玉剛を義父にもつヘルムート・ゾーメンが、1984年から1996年まで香港上海銀行の役員を、1996年から2005年まで会長代理を、1990年から2007年まで親会社のHSBCホールディングスの役員を務めている。包はケ小平に厚遇されていた。

包玉剛(ほう・ぎょくこう、パオ・ユーコン)

1918年浙江省寧波に中流家庭の三番目の子として生まれる。1931年に漢口に引っ越す。1937年に上海に移動。中国中央信託局に勤務する。1945年には上海市銀行営業部長及び副総経理に就任したが、その後1948年に香港に移住。 1955年に海運業ワールドワイドシッピングを開業。香港銀行からの支援もあり、徐々に所有船舶を増やす。1971年には香港銀行の取締役となり、その後副頭取となる。1975年には香港大学より名誉博士号を授与された。1977年には1377万トンを超える船舶を保有し、「アジアの海運王」と呼ばれるようになった。1978年にはイギリスからナイト称号を受勲、日本の勲三等瑞宝章受勲、函館、大阪、佐世保の名誉市民の称号を受ける。1970年より徐々にもともとジャーディン・マセソンの影響下にあった九龍倉集団(The Hongkong and Kowloon Wharf and Godown Company, Limited、香港九龍碼頭及貨倉有限公司)の株式を買収し始め、1980年には傘下におさめる。

ヘルムート・ソーメン

ソーメンの義理の父包玉剛は、世界最大の海運会社の1つであるワールドワイドシッピングを所有していました。1970年、ソーメンは家業に加わるために家族と共に香港に移住しました。バミューダ(1974年)とロンドン(1977年)で働き、1981年についに香港に定住しました。1983年にソーメンは世界的な海運グループの会長に任命され、パオのオーナーシップは1989年にソーメンの妻に渡されました。2003年にワールドワイドはノルウェーのベルゲンセンを買収。後にBergesen Worldwide Ltd.改称。このグループには、140のタンカーと4500人以上の従業員(2010年)がいます。

今回はここまで。

それでは



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