2019年01月07日

失われた20年の原因C 世界統一政府樹立を目指す日本の南朝・北朝の存在・大解説

失われた20年の原因C 世界統一政府樹立を目指す日本の南朝・北朝の存在・大解説】

2013/07/31 21:16

さて、結論は日本というか、天皇家は大化の改新で藤原家に乗っ取られたということ。


以前の記事で、元々、古い渡来人(縄文人)が住んでいた日本に、新しい渡来人(弥生人)が来て、縄文人を追いやり、古事記、日本書紀を作り歴史を捏造したということを、複数の記事に渡って書いてきました。

それまでの天皇家の歴史は単なる神話(架空化)にされてしまいました。
大化の改新で有名なテロリストは藤原鎌足(中臣鎌足)
その息子である藤原不比等

藤原不比等の4人の息子は藤原南家・藤原北家・藤原式家・藤原京家を興しました。

長男:藤原武智麻呂(680-737) - 南家祖
次男:藤原房前(681-737) - 北家祖
三男:藤原宇合(694-737) - 式家祖
四男:藤原麻呂(695-737) - 京家祖

■藤原 武智麻呂(ふじわら の むちまろ、天武天皇9年(680年) - 天平9年7月25日(737年8月29日))は、飛鳥時代から奈良時代前期にかけての貴族・政治家。藤原不比等の長男で、藤原四兄弟の一人。藤原南家の祖。

■藤原 房前(ふじわら の ふささき、天武天皇10年(681年) - 天平9年4月17日(737年5月21日))は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての貴族。藤原不比等の次男。官位は正三位行参議。贈正一位、太政大臣。藤原北家の祖

■藤原 宇合(ふじわら の うまかい、持統天皇8年(694年) - 天平9年8月5日(737年9月3日))は、奈良時代の公卿。初名は馬養。右大臣・藤原不比等の三男。藤原式家の祖。官位は正三位・参議。勲二等。

■藤原 麻呂(ふじわらのまろ、持統天皇9年(695年) - 天平9年7月13日(737年8月17日))は、奈良時代の貴族。右大臣・藤原不比等の四男で、藤原四兄弟の末弟。官位は従三位・参議。藤原京家の祖。
(以上Wikipediaより)

■藤原南家(ふじわら なんけ)祖の武智麻呂は北家の房前とともに、元正朝から聖武朝にかけて長屋王と政権を争ったが、神亀6年(729年)長屋王の変により政権を掌握し、他の兄弟たちと共に聖武朝で政権を主導した(藤原四子政権)が、天平9年(737年)の天然痘蔓延により他の兄弟とともに病没してしまう。

武智麻呂には4人の息子があり、孝謙朝〜称徳朝にかけて、長男豊成(右大臣)・次男仲麻呂(大師)が続いて大臣となった。特に仲麻呂は淳仁天皇を擁立すると、息子3人(真先・訓儒麻呂・朝狩)を参議とし前代未聞の親子4人を公卿とするなど権力を独占したが、天平宝字8年(764年)恵美押勝の乱により失脚した。

その後も桓武朝において、武智麻呂の長男豊成の子継縄と、三男乙麻呂の子是公が続いて右大臣となり、南家は勢力を維持した。しかしながら、続く平城朝の大同2年(807年)に当時政権2,3の座にあった、雄友(是公の子:大納言)・乙叡(継縄の子:中納言)が伊予親王の変により失脚し、仲麻呂に続き、豊成・乙麻呂の系統も中央貴族としては衰退した。

なお、乙麻呂の系統で平安中期に武人として頭角を顕した藤原為憲の子孫は各地に広がり、工藤氏、伊東氏、伊藤氏、二階堂氏、相良氏、吉川氏、天野氏といった各氏の祖となった。

平安中期以後は、北家に押され政治的に衰退する中、武智麻呂の四男巨勢麻呂の子孫が中央貴族として続き、多くの学者を輩出した。院政期に院近臣として勢威を得た藤原通憲(信西)はその代表である。また、後白河法皇の近臣で後に順徳天皇の外祖父となった範季の子孫からは堂上家である高倉家(室町時代末に絶家後、江戸時代に再興し藪家に改号)を出した。

■藤原北家(ふじわらほっけ)は、藤原四家の中では最も遅い時期に興隆し、その結果として、藤原四家の中では最も栄えることになった。

祖の房前は元正朝で他の兄弟に先んじて参議に昇進すると、後に祖父鎌足以来の内臣となり、元正天皇の側近として長屋王と政権を争った。聖武朝になると、神亀6年(729年)長屋王の変により政権を掌握し、藤原四子政権でも中心人物として政権を主導したが、天平9年(737年)の天然痘蔓延により他の兄弟とともに病没してしまう。

その後奈良時代後期〜平安時代初期にかけては、光仁朝で房前の子である永手・魚名が左大臣に昇るが、桓武朝では永手の嫡男・家依は早逝し、魚名は氷上川継の乱に連座して失脚したこともあり、南家・式家に押されがちの状態にあった。

しかし平城朝以後、大同2年(807年)の伊予親王の変で南家の、弘仁元年(810年)の薬子の変で式家の勢力が衰えると、嵯峨天皇の信任を得た冬嗣が急速に台頭し他家を圧倒するようになった。さらに、冬嗣が文徳天皇の、その子良房が清和天皇の、そしてその養子(甥)基経が朱雀天皇と村上天皇の、それぞれの外祖父となり、北家嫡流が三代にわたって外戚の地位を保ち続けたことが、同家の優位を確固たるものにした。これが以後の、北家嫡流 = 藤氏長者 = 摂政関白、という図式を決定づけることになり、この系統による「摂関政治」が後の道長・頼通父子の時代に全盛を極める。その子孫は五摂家に別れたが、公家の最高家格はひきつづきこの五家が独占した。

他の藤原姓の堂上各家もほとんどが北家の後裔である。明治維新時、137家ある堂上家のうち93家が藤原北家である(他は源氏18家、菅原氏6家、平氏5家、卜部氏4家、藤原南家3家、清原氏3家、安倍氏2家、大江氏1家、丹波氏1家、大中臣氏1家)。

派生氏族は公家ばかりではなく、武家の道兼流宇都宮氏・小田氏、長家流那須氏、勧修寺流上杉氏、山蔭流伊達氏、利仁流斎藤氏・加藤氏、秀郷流奥州藤原氏・藤姓足利氏・小山氏・結城氏・佐野氏・小野崎氏など、主に関東・北陸・東北に勢力基盤をもった多くの氏族が武家が藤原北家の末裔と称した。

■藤原式家(ふじわらしきけ)とは、右大臣藤原不比等の三男藤原宇合を祖とする家系。宇合が式部卿を兼ねたことから式家と称した。

祖の宇合は長屋王の変の後参議に昇進し、他の兄弟たちと共に聖武朝で政権を主導したが、天平9年(737年)の天然痘蔓延により病没してしまう。さらに直後に大宰少弐に左遷された宇合の長男広嗣は天平12年(740年)九州にて反乱を起こしたが、敗死してしまった(藤原広嗣の乱)。この為孝謙 〜 称徳朝にかけて、南家(豊成・仲麻呂)や北家(永手)の後塵を許す時期がしばらく続いた。

広嗣の弟である良継や百川は称徳天皇の後継に光仁天皇を擁立することに成功し、道鏡・吉備真備に代わって政権の中枢に躍り出た。また、彼らはそれぞれ自分の娘(乙牟漏・旅子)を皇太子山部親王(のちの桓武天皇)の妃とし後宮政策も行った。彼ら兄弟はいずれも桓武天皇の即位を見ないまま亡くなったが、乙牟漏は皇后となり平城・嵯峨の両天皇を、旅子は淳和天皇を産み、平安初期の式家繁栄の礎を築いた。桓武朝では式家一族は重用され、宇合四男の田麻呂は事実上の臣下最高位であった左大臣にまで昇進し、三男清成の子である種継は長岡京造営の事業を一任されるなどした。

百川の子で桓武天皇の義弟(姉の旅子は天皇の女御)でもあった緒嗣もわずか29歳で参議に昇進すると、長岡京の後に建設された平安京造宮と蝦夷征伐の中止を進言し、平城朝においては観察使制度の設置等政治改革に積極的に取り組み、嵯峨朝を経て旅子を母とする淳和天皇が即位するとその外伯父として累進し、右大臣ついで左大臣に至った。

しかし、一方で良継の一人息子である託美の事故死による、平城・嵯峨両天皇の外戚である良継系の断絶があったことや、嵯峨朝になると、種継の子で平城天皇の尚侍として権勢を握った薬子とその兄仲成が反乱を企てて断罪された薬子の変の発生に加え、嵯峨天皇・檀林皇后の信頼を受けた北家の冬嗣の台頭により、嵯峨朝以降式家は徐々に北家に圧倒されていく。

さらに、冬嗣の息子である良房が嵯峨上皇の皇女源潔姫を降嫁されるなど、父同様上皇と皇太后に深く信任されたのに対し、緒嗣は長男の家緒に先立たれる等、式家はその後有力な人材を出すことができなかった。

それでも、緒嗣は冬嗣の死後、淳和・仁明朝において15年以上も台閣の首班の座を維持し、従兄弟甥にあたる吉野も地方官として治績を挙げ、中納言に昇進した。しかしながら、吉野は承和の変で失脚し、その直後には緒嗣が亡くなる等の条件も重なり、以後は式家が再び政治の中枢に立つ事は無くなった。

その後は、藤原純友の乱を平定した忠文や、阿衡事件に関与した佐世等を輩出したものの、平安時代中期以降は儒学によって立身する家系として数家がしばらく血統を保つのみとなり、鎌倉時代まで続いた家はほとんどなかった。但し、摂津渡辺党の一つである遠藤氏は式家の後裔を称した。

■藤原京家(ふじわらきょうけ)藤原麻呂が左京大夫を兼ねたことがこの家名の由来。藤原四家の中では最もふるわなかった。麻呂が藤原四兄弟で一番年下だったこと、兄たちよりも子女の数が少なく早世者も多かったことに加え、唯一参議に昇った浜成が氷上川継の乱に連座して流罪になったことで、一族全体の政治生命が絶たれてしまったためである。

平安時代前半には、藤原貞敏(琵琶)・藤原冬緒(儒学)・藤原興風(和歌)・藤原忠房(和歌、舞楽)など、文化・芸術面で多くの人材を輩出した。その中でも特に冬緒は長命だったこともあり累進して大納言に至った。また、桓武天皇の後宮に仕えた藤原河子が天皇との間に儲けた仲野親王は宇多天皇の外祖父となったことから、京家の血脈は女系で皇室につながり現在まで続いている。後世においては越後国の直江氏が京家の末裔を称している。

これで藤原京家が消えた事は確定。

平城天皇・嵯峨天皇の確執も読み取れます。

藤原式家は平城天皇側に付いて長岡京(平城京)の後に建設された平安京造宮と蝦夷征伐の中止を求めた。
藤原北家は嵯峨天皇側に付いて(文中には記載がありませんが)平安京派だった。

藤原南家に関しては平安京に関する既述が有りませんね?

つまり、藤原式家と藤原北家が仲間割れを起こしたと書いてあるのです。

藤原式家は平城京派、藤原北家は平安京派ということ。

それで結局は藤原北家が押し切って、平安京派が勝った。

この仲間割れが、最終的に源平合戦に繋がってゆき、源氏、つまり藤原北家の勝利に終わるのです。
この藤原北家(北朝・清和源氏系)が明治維新までの日本の主流だったということも、上記Wikipediaの文章で分かります。


ここで斎王制度/斎院の知識が必要になります。

■斎院(さいいん)は、平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両賀茂神社に奉仕した斎王、または斎王の御所。賀茂斎王、賀茂斎院とも称する[1]。

賀茂神社では祭祀として賀茂祭(現在の葵祭)を行い、斎王が奉仕していた時代は斎王が祭を主宰してきた。その後も葵祭は継続されたが室町、江戸、戦後と三度祭が断絶したという。その後、1953年に祭が復活したことを契機として、1956年の葵祭以降、祭の主役として一般市民から選ばれた未婚の女性を斎王代として祭を開催するようになった。斎王代に選ばれた女性は唐衣裳装束(からぎぬもしょうぞく)を着用し、舞台化粧と同様の化粧に加えお歯黒も施される。

斎院の起こり

賀茂斎院制度の起源は、平安時代初期に求められる。平城上皇が弟の嵯峨天皇と対立して、平安京から平城京へ都を戻そうとした際、嵯峨天皇は王城鎮守の神とされた賀茂大神に対し、我が方に利あらば皇女を「阿礼少女(あれおとめ、賀茂神社の神迎えの儀式に奉仕する女性の意)」として捧げると祈願をかけた。そして弘仁元年(810年)薬子の変で嵯峨天皇側が勝利した後、誓いどおりに娘の有智子内親王を斎王としたのが賀茂斎院の始まりであると言われる。

斎院制度

伊勢神宮の斎王(斎宮)に倣い、歴代の斎王は内親王あるいは女王から選出され、宮中初斎院での2年の潔斎の後、3年目の4月上旬に平安京北辺の紫野に置かれた本院(斎院御所)に参入するが(角田文衞説では、斎院御所のあった場所は現在の京都市上京区櫟谷七野神社のあたりに相当するという)、この御所は地名により紫野斎院、あるいは単に紫野院とも呼ばれた。 斎王はここで仏事や不浄を避ける清浄な生活を送りながら、賀茂神社や本院での祭祀に奉仕した。特に重要なのは四月酉の日の賀茂祭で、斎王はあらかじめ御禊の後上賀茂・下鴨両社に参向して祭祀を執り行った。この時の斎院の華麗な行列はとりわけ人気が高く、清少納言が『枕草子』で祭見物の様子を書き留めており、また紫式部も『源氏物語』「葵」の巻で名高い車争いの舞台として描いている。

伊勢斎宮・賀茂斎院の二つの斎王制度が両立していた間、都に近い斎院の方が遠い伊勢の斎宮よりも重んじられていたようで、歴代斎院は斎宮に比べて女王が少なく、また生母の出自も高い例が多い。一方で斎院は天皇の代替わりがあっても退下しないことがしばしばあり、2朝以上任にあった斎院も少なくなかった。中でも、歴代最長の選子内親王は実に5朝(円融朝から後一条朝まで)56年間の長きに渡って斎院をつとめたことから“大斎院”と称された。なお、退下の後は斎宮同様殆どの斎院が生涯を独身で終えたが、天皇や貴族と結婚した斎院も少数ながらおり、院政期には数名の女院も出ている。

賀茂神社、伊勢神宮、これらがカラスです。

嵯峨天皇が、都を平安京から平城京へ戻そうとした平城上皇との争いに勝利した。

勝った嵯峨天皇に付いていたのが藤原北家

負けた平城天皇に付いていたのが藤原式家

藤原式家(南朝・桓武平氏系)の家系図を見てみましょう。

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おや?平清盛が入ってますね?

平家とは藤原式家のことであり、源氏とは藤原北家のことであったのは周知の事実。

平氏(桓武平氏系)
源氏(清和源氏系) 

北朝=藤原北家(清和源氏系)と南朝=藤原式家(桓武平氏系)の戦い

南家という名前=南朝と思っている人は素直でいいと思いますが、短絡的です。これは間違いです。
これがその後の源平合戦で、源氏が勝利し、鎌倉幕府ができるのです。

ここで北条氏に登場していただきましょう。

北条氏

桓武平氏高望流の平直方の子孫を称し、伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市)を拠点とした在地豪族である。現在伝わる北条氏系図は、いずれも時政以前の系譜は系図により全て異なる。中には関東で成立した『源平闘諍録』に記された系譜のように、伊勢平氏の祖・平維衡の子孫とするものまであり、未だ定説が存在しない。こうした史料状況から、北条氏が自家の系譜が正確に伝わる家ではなかった事を示しているとして[1]、桓武平氏の流れであることを疑問視ならびに否定視する研究者も少なくない。家紋研究家の高澤等は、同じ三つ鱗紋を用い、北条氏のように大蛇伝説を持つ九州緒方氏の祖である大和国大神氏の一族ではないかと論考している。ただし時政の祖父が時家、父が時方(または時兼)という点は諸系図でほぼ一致しており、時家の『尊卑分脈』傍注には「伊豆介」とある。上横手雅敬は、土着したのはそう古い年代ではなく、幕府内での世渡りの良さに鑑みるに、京都と極めて密接な関係にあったのではないかと推測している。

北条氏は桓武平氏高望流の平直方の子孫を称し、とあります。

桓武平氏

桓武平氏 50代桓武天皇の子・葛原親王、万多親王、仲野親王及び賀陽親王の子孫。

葛原親王流、高棟王流、善棟王流、高望王流、万多親王流、仲野親王流、賀陽親王流とあり、その中でも高望王流に坂東平氏、伊勢平氏と平家、平家の落人と分類されています。

中でも高棟王流と高望王流の平家の落人に注目。

高棟王流
葛原親王長男の高棟王子孫。高棟王は天長2年(825年)に賜姓を受けて平高棟となった。
この流れは公家として京に残り、平安時代末期に平清盛の正室平時子(二位尼)と、その弟で清盛の威勢によって正二位権大納言にのぼった平時忠、異母妹の建春門院平滋子が出た。時忠は壇ノ浦の戦いの後、能登に流され没落したが、時忠の弟親宗の子孫(唐橋家)や叔父信範の子孫(西洞院家・安居院家・烏丸家)は鎌倉時代以降も公家として続いた。歴史物語の今鏡に、「日記の家」と紹介されているように平記・兵範記をはじめ多くの古記録を残す。江戸時代には西洞院家・平松家・長谷家・交野家・石井家という5家の堂上家を出した。

高望王流
葛原親王三男の高見王の子・高望王子孫。高望王が賜姓を受けて平高望となったのに始まる。
但し、高見王の名は同時代の史料に名前が見えないので系譜には疑問も残る。(「望」と「見」は両方とも名読みで「み」と読める。)寛平元年(889年)に皇族5名が平朝臣を賜姓されたとの記録(個々の名前は伝わらない)があるので、高望王はそのうちの一人と推定されている。
 
坂東平氏

 高望は、昌泰元年(898年)に上総介に任じられ遥任国司が多いなか、子の国香・良兼・良将を伴い任地に下向した。そして任期 が過ぎても帰京せず、国香は常陸大掾(大掾氏)、良将は鎮守府将軍を勤めるなどし、上総国ばかりでなく常陸国や下総国にも勢 力を拡大、坂東に武士団を形成し武家平氏の基盤を固めた。また、高望の側室の子良文もその後坂東に下り、良文の子孫も坂東に 散らばって三浦氏・土肥氏・秩父氏・千葉氏などの武家となった。特に良文流の坂東平氏を坂東八平氏という。

伊勢平氏と平家

 国香の孫維衡よりはじまる一族が伊勢平氏である。平氏の中でも伊勢平氏、特に正盛の系統(六波羅流・六波羅家)は「平家」と 呼ばれている。正盛の子忠盛が初めて昇殿を許され、忠盛の子清盛は平氏政権を樹立し栄華を誇ったが、壇ノ浦の戦いで滅亡した。

 維衡の子孫には他に室町時代に有力な幕臣となる伊勢氏がおり、第13代将軍足利義輝の時代の政所執事・伊勢貞孝は幕政を壟断す るまでになったが、三好氏と対立して戦死した。貞孝の死後、伊勢氏は力を失ったが江戸時代には旗本として続いた。また伊勢氏 の傍流出身といわれる伊勢盛時は一代で伊豆・相模を平定し、戦国大名・後北条氏(小田原北条氏)の祖となった。
 
平家の落人
 
 各地に散らばって隠れ住んだ「平家の落人」の子孫を自称する武家は大変多く、代表的なものとして薩摩の種子島氏、対馬の宗氏、尾張の織田氏などが挙げられる。しかし、これらは子孫だとしても伊勢平氏の子孫ではなく、「平家に仕えた郎党の子孫」と いうべきだろう(織田氏については藤原氏説もあり)。ただし、前述のように伊勢平氏に仕えていた郎党を他氏出身者も含めて 一括して「平家」と呼んだ用例もあるため、その意味においては「平家の落人」という言葉も全くの誤りではない。

 熊本県の五家荘や富山県の五箇山などは平家の落人の隠れ里と伝えられる。これら平家の落武者およびその家族、使用人等の隠れ 里と伝わる地を「平家谷」と通称する。
 室町時代に入ると『平家物語』が完成し、今日まで広く愛される軍記物語となった。

■織田氏

織田氏(おだし)は、日本の氏族・武家。斯波氏の家臣の家柄。家紋は揚羽蝶、織田木瓜など。通し字は嫡流・伊勢守家の「広」、大和守家の「定」、後に近世大名となる弾正忠家の「信」など。

発祥地(苗字の地名)は越前国織田庄(福井県丹生郡越前町)。本姓は藤原氏(のちに桓武平氏の系統と仮冒)。実際は忌部氏の流れを汲むとされる。甲斐氏、朝倉氏と同じく、三管領の斯波武衛家の守護代であり、序列は甲斐氏に次いで二位であった。

織田氏は系図の上では平資盛の子と称する平親真を祖とする桓武平氏流と自称している。しかし、福井県越前町の法楽寺で発見された親真を供養した五輪塔の一部には「喪親真阿聖霊(あしょうりょう)正應三年庚刀(かのえとら)二月十九日未尅(ひつじのこく)」、つまり親真は正応3年(1290年)2月19日に亡くなったと刻印されており、『信長記』(小瀬甫庵)などの文献と照らし合わせると親真が100歳を超える寿命になり信憑性が問われる[1]。

この他、越前国織田庄(福井県丹生郡越前町)の織田剣神社の神官の出自であるともされている[2]。

また、福井県の郷土史家である松原信之の研究によると、織田剣神社にある『藤原信昌・兵庫助弘置文』の古文書で、明徳4年(1393年)の6月17日に剣神社宝前に奉納し、置文を記した鎮守府将軍・藤原利仁(あるいは利仁の岳父で、敦賀郡の豪族藤原有仁(忌部氏?))の系統と思われる藤原信昌、藤原兵庫助将広(将常)父子が越前織田家の先祖に関連がある人物と伝わる。事実として織田信長は「藤原信長」と称しているが、その根拠はここから来ており、元東京帝国大学史料編纂官の博士・田中義成の研究によると、信長は実際に天文18年(1549年)11月、熱田八ヶ村の熱田神宮で自ら「藤原信長」と認(したた)めていると述べている(『加藤文書』より)。また、天文23年(1554年)6月11日、織田信長は熱田神宮に菅原道真画像(熱田神宮所蔵)を寄進。その絵巻には「藤原織田勘十郎」と記してある。

また、他の学説としては、親真自身が忌部氏の出目とする説もある。

織田信長は藤原信長であり、桓武平氏流と自称している。

信憑性が無いと注意書きが有りますが、『熱田八ヶ村の熱田神宮で自ら「藤原信長」と認(したた)めていると述べている(『加藤文書』より)。また、天文23年(1554年)6月11日、織田信長は熱田神宮に菅原道真画像(熱田神宮所蔵)を寄進。その絵巻には「藤原織田勘十郎」と記してある。」とあります。

ここで、破れた平家=藤原式家は、北条氏、織田氏として、逆襲のチャンスを狙っていたと仮定します。

すると、それ以降の日本の歴史が何だったのか?
戦国時代とは何だったのか? 太平洋戦争とは? 原爆とは?

水戸黄門、徳川家、大本、マスコミ、在日特権、パチンコ、K-POP、朝鮮総連、民団、統一教会、創価学会
日本全体の歴史や仕組みが芋づる式にクリアになってくるのです。
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日本に君臨するもの フリーメーソン日本ロッジ幹部の証言』
著者:高崎廣・フリーメースンリー・グランド・ロッジ・オブ・ジャパン スコティッシュライト第三十二位階級
編:島田四郎・高山和雄
発行:メディアワークス(オルタブックス)

p.32
▼1950年1月14日付『朝日新聞』は、「秘密結社か否かフリーメーソン」「世界一流人が参加 真理を追究する集い」の見出しの下、ナポレオン、ジョージ・ワシントン、ルーズベルト、チャーチル、アインシュタイン、マッカーサーなど十人の写真を添えた九段抜き記事を掲載した。

「世界最大の秘密結社であり世界一流人は皆会員に参加しているといわれるフリーメーソンの支部が日本にも設置され、いよいよ世界の一流人との交際を始めることになったが、戦時中軍の誤れる宣伝は、徒に亡国のための秘密結社であるかのように日本人に教え込んでいたため現在でもなにかしら恐ろしいスパイ団体のような疑念を国民に抱かせている。ではフリーメーソンとは如何なる団体であろうか」

というリードに続き、メーソンが平等の立場に立って哲学・宗教・芸術の根源を追求する組織であること。

米歴代大統領やナポレオン、ロベスピエールなど、「偉大な政治家はすべてこの会に属していたことを見ても如何にこの会の力が偉大でありかつ正しいものであるかがわかる」と全面的に評価し、その起源や組織形態などを伝えている。

村山氏が「日本のフリーメーソン」のなかで、「建設時代にもっとも犠牲的努力をした人」としてあげている数人中には朝日新聞記者の名もあるが、この記事が同記者の筆になるものか否かは不明である。

発足時に入会したのは、5人の国会議員と2人の民間人でした。すなわち佐藤尚武参議院議員、高橋龍太郎国務大臣、植原悦二郎国務大臣、三島通陽参院議員・日本ボーイスカウト総長、栗山長十郎衆議員議員、それにジャパンタイムズの芝均平編集局長と村山有社会部長。

いずれも、日本にフリーメーソンを導入しようと、当時、熱心に活動していた人たちです。

彼らが核になり、その後、東久邇宮、李王朝の李王殿下、河合弥八参院議長、野田俊作参院議員、加納久朗千葉県知事、小松隆日米協会会長、山下太郎アラビア石油社長、梁瀬長太郎ヤナセ自動車社長ら、皇族や政治家・財界人多数が入会しました。とりわけ有名なのは、後に首相になる鳩山一郎氏でしょう。

村山さんの著書によれば、1956年6月、メーソンの会合に出席した鳩山首相は、「四千年の歴史を有するフリーメーソンが日本で実を結んで今日に至ったことを誇りに思います」と挨拶。メーソンの現役首相として、公にメーソン礼讃をした日本初の宰相となりました。

民主党の鳩山由紀夫さんがスローガンに掲げる「友愛」は、フリーメーソンの基本理念の一つです。由紀夫さんは日本のメーソンに入っていませんが、やはりおじいさんの影響を受けているんでしょうね。
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メーソンの2001年名簿には以下の名前がある。
【HON. Yuya Hirose, 32 KCCH, Venerable Master】
フリーメーソン日本最高幹部極秘リスト
http://www.asyura.com/2002/bd19/msg/123.html

みなさんご存知の広瀬裕也です。

ちなににこの“32 KCCH”というのは、「最高階級である第33階級として将来の最高幹部となるために養成されるべく第32階級のメーソンの中から特別に選ばれて特殊な訓練を受けている特別な人材」なのである。

要するに「メーソンのプリンス」ということである。
日本ロッジの広報である第32階級の片桐氏よりも位は上なのだろう。

掲示板に、『(広瀬祐也 yuya hiroseで検索して下さい 熱田神宮大宮司の曾孫で32階級です。メイソンでは極東のメシアと呼ばれています)』という信用していいのかどうか考えもんの情報を発見しました。

さらにこの『熱田神宮大宮司』という人物を調べてみたら、今はブログが消えていますが、

『鎌倉幕府を開いた源頼朝は1147(久安3)年、源義朝と熱田神宮大宮司の娘・由良御前の間に生まれている。』
『源頼朝 久安三年(1147)頼朝生る 父は源義朝 母は熱田神宮大宮司の女 由良姫 幼名鬼武者』
という、記述がありました。

ということで、どうもこの『熱田神宮大宮司』という人物は、歴史上の重要人物だったようです。

メーソン広瀬は「熱田神宮大宮司の曾孫」
「源頼朝の母は熱田神宮大宮司の娘」

このふたつの情報を、「事実である」と仮定してみると面白い見方ができそうな気がします。

この「源氏」は7代目に、足利家を名乗る家系を生み出しています。
この家系が「室町幕府の将軍」足利尊氏に繋がります。
この足利家は、後に「細川」に改姓します。
改姓したこの細川家の直系子孫が、細川護煕元首相になります。
細川護煕元首相の祖父が近衛首相です。

そして、「源氏」の8代目の孫が「徳川(得川)」を名乗り、そこから数えて16代目が「江戸幕府」を開いた徳川家康になります。

熱田神宮大宮司→源頼朝→足利尊氏→徳川家康→細川護煕&メーソン広瀬
こんな具合の系図になるはずです。

この系図が示していることは、ここに流れる「血」は天皇家の「血」であるということです。

この系図には、平清盛や織田信長も含まれます。
織田信長も天皇家の直系子孫です。

信長は源氏ではなく、桓武天皇に発する平家の一門で、平清盛の曾孫が織田家の始祖になります。
これが「メーソンのエリート」である広瀬の秘密かも知れません。
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04/06/28 01:34 ID:WFXj2hU5
今年の6月12日、京都・下鴨神社において「蛍石の茶会」というのが開かれた。
主宰は財団法人・糺会という組織。
茶席の主人は千玄室・前裏千家家元。

客人は下鴨神社宮司を上席にして、宮沢喜一・元首相、白井丈二・神社本庁元総長・鶴岡八幡宮宮司、
フリーメイソン広瀬祐也、西高辻・太宰府天満宮宮司、神戸のユダヤ教シナゴーグの主席ラビであるガオン氏、民主党前原誠司。

茶席の後、一同は下鴨神社社殿内陣に入り、西高辻氏と広瀬氏が何らかの奉文を詠み続け、
ガオン氏が外国語で何か別文を唱える儀式?が約一時間半続いたそうだが、このあたり詳しい内容は不明。

この後、糺会の会員と思われる男女約50名に千玄室氏から改めて茶が振る舞われ、その中には谷垣禎一財務相や京都市長もふくまれていた。
その後、さきの八人は車で吉田神社へ移動、大元宮に籠り、一夜を明かした。

という情報が流れてますな。彼らは三種神器をユダヤに受け渡す密約を交わしているとか。
民主党は神道とフリーメーソン絡みで結構怪しい噂が広まってるよ。