2018年12月24日

バビロン人の糞じじい

バビロン人の糞じじい

下記は http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/3902/b_establishment.html からの転載なので、普通の文章(陰謀論ではない)なので普通に読んでください。

バビロンによるBC587年のエルサレム陥落以降、ユダの民バビロン捕囚となった人たち、エジプトへ逃れた人たち、 オリエントと地中海沿岸地方などに移住した人たち、そしてユダに引き続き留まった人たちに分かれました。

他国に移住した人たち、特にバビロンに連れて行かれた人たちは、民族の誇りとアイデンティティを維持しようとつとめました。 それまでは国教であり、祭儀中心であった創造神の宗教が、生活に深く根ざした「(父祖の)信仰」の宗教として再認識されていきます。 チグリス・ユーフラテス川の上流地域にはスーラなどにいくつかユダヤ人の神学校が作られ、そこでモーセ五書をはじめとした、 旧約聖書の根幹となる部分、多くは口承・口伝であったものが、そこで成文化されたものと考えられます。

エルサレム神殿にかわる礼拝の場所として、初期には水辺や町のはずれの広場で、安息日(土曜日)ごとに礼拝が守られるようになりました。 詩23編の「憩いの水辺」・「青草の原」という言葉はその礼拝の場所を表しています。

経済的な余裕が出来てくると、会堂(シナゴーグ)で礼拝が守られるようになりました。そこは単に礼拝をするだけでなく、 情報交換の場所であったり、婚礼の会場として用いられたりしました。

紀元前6世にバビロンがペルシャに滅ぼされ、間もなく捕囚解放の勅状が発布されました。  

ゼルバベルをリーダーとする、数万人の帰還民はBC520〜516年にかけて新しい神殿を建築します。

そして【神の人モーセの律法(祭儀法典)】に書き記されている通りに祭儀が行われたと、エズラ記は報告しています。

BC前444(445)年にネヘミヤという人がバビロンからやってきて、帰還民達を指導し、 それまで難航していたエルサレム城郭の修復を一気呵成に成しとげ、完成感謝の祝いとして「水の門の前の広場」で礼拝を捧げました。 そこでは聖書(五書)の朗読と解き明かしがなされました。

それはネヘミヤの時代には聖書の根幹である五書がバビロンにおいて用いられ、 聖典の地位を(ヤムニア会議の)得ていたことを示唆しています。 バビロニア・タルムード(律法の解説書)が紀元前500年頃、編纂されましたが、五書の成文化はそれ以前に完了していたものと思われます。

そんな中、有名なアレキサンダー大王(BC336〜323在位)の東征によって、ペルシャ帝国が滅ぼされ、 古代オリエントやエジプトはギリシャ文明・文化の多大な影響を受けるようになります。

エジプトでは、紀元前3世紀以降、ギリシャ語が日常語として使用されるようになりました。 紀元前3世紀に、エジプトでギリシャ語しか解さないユダヤ人向けに、旧約聖書のギリシャ語訳の作業が始まりました。 それはモーセ五書(創世記〜申命記)に始まり100年以上に渡って続けられました。「LXX」=「七〇人訳」と呼ばれるものです。

パレスチナでは、ユダヤ教はヘレニズム(ギリシャ)文明の侵攻を受けて、パリサイ派、サドカイ派、エッセネ派、ザドク派、ゼロテ(熱心)党 など、いくつかの派閥、あるいは異端に分化しました。それぞれが「正統派」または「改革派」を自称していました。

「第二次ユダヤ戦争」=ゼロテ党が中心になったローマに対するレジスタンス運動で、紀元前70年にエルサレム神殿は破壊され、 ユダヤ人達はエルサレムから追放されてしまいました。それでユダヤ教の中心(ベト・ディーン)はヤムニアに移されたのです。

AD90年ごろのヤムニアの「会議」は、神殿の喪失というユダヤ教の根幹を揺るがす事件を受けての「会議」でした。 ところで既に旧約各巻は「聖典」としての地位を得て用いられていたましたから、「会議」は皆の意見を求め、新しい聖典を決めようとか、 折衷案を多数決で決める、という「会議」ではなかったのです。それは「不要な書物の排除」であったようです。もちろん、神聖なヘブライ文字で書かれているとか、 神聖な書物に相応しい内容という判断基準はありました。

たとえば歴代誌などは正典に含めるかどうかで最後までもめたのです。内容を読めば歴然ですが、「ダビデ賛歌」に他なりませんし、 歴史資料としての信憑性もイマイチなのです。 ですが、歴代誌は結局ユダヤ教の正典の一番末尾に収められました。 多分列王記に「ユダの王の歴代史に書いてある」という字句が頻出しているので、「参考までに収めた」というのが本音ではないかと (僕は)思います。

(転載おわり)

出ましたねエッセネ派。

エジプトの遺跡とかで良くみられる、右手を心臓に置き、左手は右胸に置く、胸の前で手をクロスさせるポーズ。

これはエッセネ派の挨拶であるとされています。

「イエスは歩み出て、エジプトのある秘密会議で会って以来はじめてヨハネと対面しました。ヨハネはすぐあの〈キリスト〉になった人の前にいることに気付き、右手を心臓の上に置き左手を右胸の上に置いて両腕を胸の上で交差させるエッセネ人同士の挨拶をすると、イエスも同じ挨拶でそれに答えました」

また出たエジプト・・・

キリスト教はエジプトの宗教のパロディ。

以前、薔薇十字会の記事を書きましたが、この会のサイトには、薔薇十字会の起源はトットモス3世(紀元前1500-1447)で、その孫であるアメンホテップ4世(アクナトン王)が発展させた古代エジプトの神秘学派に繋がります。

この知識と技法の伝統は、ギリシャの治療家(Therapeuti)の会、シリアとパレスチナのエッセネ派、錬金術師(後のサン・ジェルマンとかに繋がり、ヘッセンカッセルへと受け継がれた)と呼ばれた人達の処方集、カバラとして知られる象徴システム、中世の諸騎士団の儀式によっても伝承されたことが知られています。

ということが書かれていて、エジプト→ギリシャ→ローマと引き継がれ・・・

紀元前333年のアレキサンダー大王によるエジプト征服によってギリシア世界のエジプト文化の同化作用が促進された。この活動の中心になったのは、紀元前331年に建設されたアレキサンドリア市であった。そこはナイル川の水が地中海と混ざり合う地であった。アレキサンドリア市は、エジプト、ユダヤ、ギリシアそしてキリスト教文化の交差点であり、何世紀にも亘って東地中海の知性の中心として機能した。テラピュータエ派(Terapeutae)やグノーシス派や様々な他の神秘学的な運動がこの市の周りで発達した。その図書館では、当時の全ての知識が一堂に集められ、5万冊以上の蔵書で富んでいた。アレキサンドリアはまた、グレコ・エジプシャン錬金術(Greco-Egyptian alchemy)が栄えたるつぼでもあった。

そしてアレクサンドリア。
何故、アレキサンダー大王はインドまで遠征したのか?

それは後日触れるとして、先日、「アレクサンドリア」(AGORA)という映画を観ました。
その中で、当時、新興宗教であるクリスチャンが暴徒となり、この図書館の書物のほとんどを燃やしてしまうシーンが有ります。

これが証拠隠滅、歴史の捏造に目的を置いていたはずなのです。
すると、古代からこのバビロンの糞じじいが歴史を書き換え、悪さをしていたことがトンデモ論ではないということが素人の私にでもわかってくるのです。

また、その映画にはユダヤ人も出てきますが、虐殺されてしまいます。

この映画のキリスト教徒は、本当に悪の軍団に描かれています。
そしていつの時代も、ユダヤ人は虐殺されます。

YOUTUBEで「バビロンの糞じじい」動画をアップしている人物は、奴らもう行き詰まっていて、私たちも、もう騙されないという主張をされています。
是非、一度ご覧ください。



キリスト教システム
バビロン捕囚されたユダヤ教徒の中に入り、ヤハウェ新興を忘れさせぬ役割をしていたエゼキエル。
そこからエズラ、ヨハネ、イエスと繋がって行く流れが見え、ユダヤ教の中にキリスト教システムが植え込まれる時期ですね。

私が記事を拝見し、最もワクワクするシーンは、今回ブログ主様が気付いた事実を、フィリピン国に住む御自身の周りの、
何の疑いもなくキリスト教を信奉している方々、特に奥様等と話をする場面を想像した時です。
アクション映画に登場する、ネゴシエーター位の説得力では、到底平和的解決を得るに至らないでしょう。
特にフィリピンのカソリック信仰の歴史は長く、善悪基準の根源として潜在意識の中にしみ込んでいます。
真実を知った人間達の苦しみが、ここから始まります。
この、人を小馬鹿にしたようなシステムの餌食となり、一生を精神奴隷のまま遅らせたくない、特に近しい人間には・・・
と考えるのは、親であり、夫である以上、当然の事ですからね。
御健闘をお祈りいたします。

2013/05/28(02:56) URL 編集
posted by r at 08:13| Comment(0) | ユダヤ