2019年06月17日

廣橋興光氏の誕言

廣橋興光氏の誕言
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/kashimashikan/kashimashikan8.htmlより

筆者が三〇年来親しくした廣橋興光氏という友人がいる。廣橋家は藤原氏名家の一族で幕末には武家伝奏、明治以降は伯爵家であった。父君はもと内務省のエリート官僚で、東條内閣の秘書官、のちに千葉県最後の官選知事を勤めた廣橋眞光氏、母方の祖父は中川宮の孫、もと梨本宮守正殿下であり、母君は李方子さんの妹に当る。
その廣橋氏から伝来口伝の日本史を色々と教えて貰った。要約すると、

一、天皇家は北支から満州、朝鮮をへて日本にやって来た。
二、藤原氏は中国系と朝鮮系に分かれていて中国系の方が威張っていた。
三、南朝とか北朝とかいってもわれわれの祖先はどちらにも行ったから、いま明治天皇が南朝といってもまごついたりしない。
四、戦争によって日本のおかれた惨状は家康の鎖国がもたらしたものである。
五、孝明天皇は伊藤と岩倉が殺した(但しこのことは興光氏でなく、その父君眞光氏の言である)。
六、鳥羽伏見の戦い以後の明治天皇は睦仁ではない。すり替えた天皇である。
七、伊藤の爵位ばらまきは天皇すり代えの口止め料という性格があった。
八、シンガポール陥落のときルーズベルトが特使を以て講和を申入れた。東條はそれを受けようとしたがヒロヒトは二、二六事件の体験から、軍の叛乱を恐れて継戦を命じた。この時天皇に継戦を迫った親独派の将校グループがあった。

というのである。

これらの各項目を体系化することが出来れば日本史の程造はほぼ明らかになるのに、およそ歴史学者は無視している。

明治以降、この国の歴史学、そしてその延長上にある日本の文化は『記紀』の虚構を盲信する天皇教の狂信者によって極めて不合理な体系に堕し、あえていえばオウム教の教義論の如くであった。
狂信者といっても天皇を敬愛するからではなく、国民をすべて奴隷化し、それによって自己をカポとして権威づけたいだけであった。かくして歴史学の歩みは、白文の史書を読むことができないニセ学者たちによって、教条主義的な誤読をつづけた不合理なる前期水戸学から一歩も抜け出すことが出来なかったのである。

まず廣橋氏がいうような藤原氏の出自は公表された系図からは出てこないから、これは系図の方がイカサマだったのである。

廣橋説を検証する

そもそも藤原氏の祖である不比等の名の初見は『書紀』の持統称制三年(六八九)二月の条に、「藤原朝臣史が従五位下の判事(ことわるのつかさ)になった」とあるもので、時に不比等は三十一才であった。
そのあと、文武元年(六九七)から桓武一0年(七九一)までの『続日本記』でもわずかに十三ケ所、簡略な記録だけである。

『藤氏家伝』には「(鎌足に)二子、貞慧(じょうえ)と史(ふびと)あり。史は別に伝あり」とあるが、「史(ふびと)伝」はなくして「貞慧伝」のみがある。

これを以ていえば、三十才までの不比等は経歴の空白な人物であり、そののち賀茂比売との間に生まれた宮子を文武天皇の妃とし、ついで美努王の妻、県犬養三千代を奪って彼女に生ませた安宿媛(あすかべのひめ)
が、宮子とともに今でいう混血美女だったから、娘二人の縁故で権力を手にしたというのが実相である。
あとで述べるように、藤原鎌足とは新羅の英雄金庾信(キムユシン)であったから、その次子であるという不比等の人生前半のこのような粗末な扱いは実に不可思議であり、もし不比等になんらかの重大な失策があったならば、その事実も記録されて然るべきである。

藤原鎌足は金庾信であると同時に、百済の降人郭務悰(かくむそう)(『善憐国宝記』には一ヶ所だけ唐務悰とある)でもあるが、『紀』六七一年六月の条には、「唐の捕虜となった沙門道久ら四人が十一月二日、唐から對島に到着して、唐使郭務悰ら六百人と唐に仕える百済の送使沙宅孫登ら千四百人が、船四十七隻で来朝するといったとある。

百済に囚えられ、さらに新羅に収容された郭務悰はカクムソウ→唐務悰→藤鎌足(トウ・.カマソウ)として、畿内の秦王国、またはそれから出来上った新しい日本国の内政に参与したものであろう。

『尊卑分脈』には「公(不比等)、避くる所の事あり、すなわち山科の田辺史大隅らの家に養う。それを以て史と名づくるなり」とある。この田辺史氏は百済系渡来人であり、もと新羅の王朝に囚えられた降人であった。してみると、不比等は実は名もなき百済の降人の子で、同じ降人の田辺史家に拾われたものではないか。
そういう立場の不比等が生長してから、降人のなかのヒーローであった郭務悰の子であるといい出したとしても、決して不思議ではあるまい。

鎌足臨終の前日に藤原の姓が贈られたというが、それは鎌足を郭務悰と金庾信に擬したもので、実は不比等の時代のことであった。

文武天皇二年八月十九日の詔に「藤原朝臣(鎌足)に賜うところの姓は、宜しくその子不比等等をして之を承けしむべし。ただし意美麻呂らは神事に供するによりて旧姓(中臣)に復すべし」とある。これは中臣氏―金官国の遣臣が「自分たちも金庾信の子孫だから藤原の姓が欲しい」といったものを、不比等だけを郭務悰と金庾信を合成した創作人間であった藤原鎌足の子であるとして文武天皇が認めたものであった。それが皇妃宮子の実家に対する天皇の勝手気まヽな権威付けであることはいうまでもない。

七〇七年、文武天皇の没後阿閇皇女(あへのひめみこ)が元明として即位したとあり、和銅元年(七〇八)には不比等が右大臣になったが、これよりさき、郭務悰を鎌足にしただけでは足りないとして、文武天皇とのお声がかりで新羅の英雄金庾信を舎人(とねり)親王に頼んで郭務悰と合成し、この両名を不比等の父としたのである。こののちの歴史を考えると、捕虜の娘が美貌なのを気にいって皇后にしたために、新羅系天皇家の衰退が始まったのであった。

さて、江戸幕府のもとで賎民社会を支配した弾左衛門の子孫弾直樹氏の『弾左衛門由緒書』のなかの「江戸町方の制度」によれば、弾左衛門の家系並びに由緒は次の通りである。

【弾左衛門はいはば穢多の君主なり。ただに同族問に威権を弄したるのみならず、前にも述ぶるが如く、良民社会のある部分へさへ裏面の勢力を逞し(たくまし)ふしたりき。さるにてもかく迄に強大の勢力を養ひたるは如何なる家系、如何なる由緒ありての事か。これらを探究せんは、けだし穢多の族制を記するに当たりて第一の順序なるべし。

浅草区亀岡町(往時は新町と云ふ)に住む弾直樹と云ふ人なん、往昔より穢多の君主と仰がれたる弾左衛門の後窩なりける。抑も弾家の粗先は鎌倉の長吏藤原弾左衛門頼兼(弾左衛門を単名と思ふは誤りにて弾は氏、名は左衛門その姓は藤原なりとぞいふなる)にて、その先は秦(しん)より帰化し世々秦(はた)を以て氏とせり。

抑もわが国に於て秦の帰化人と称するものは始皇の子扶蘇(ふそ)の後なり、史を按ずるに、秦皇の崩後扶蘇逃れて穢狛(わいはく)に入り、居ること五世にして韓に遷りしが、その裔弓月君なるもの応神天皇の一四年を以て一二七県の民を率い金銀玉帛(キンギンギョクハク)を齋(イツク)して帰化し、大和国朝津沼腋上地を賜ひてその民を諸郡に分置し養蚕織絹のことに従はしめるに、献ずる処の絹帛柔軟にしてよく肌膚に適ふを以て、天皇特に波多君の姓を賜へりと。これ秦の字に「はだ」の訓を付したる所以也。

その後この一族より秦左衛門尉武虎といふもの出て、武勇を以て平正盛に事へたりしが、たまたま正盛の女の姿色艶麗いと謁丈(ろうた)けてたをやかなるに掛想し、筆に想ひを匂はしてほのめかしけれども、翠帳のうち春なほ浅くて高嶺の花のえも折られず。いよいよ想ひ余りて、寧ろ奪ひ去りてもと謀りけることの端なく洩れて正盛の怒りに触れ、日頃股肱(ここう)としも頼む武虎にかゝる不義の振舞あらんとは奇怪なり。いで物見せんとて討手を差向けたるよし、武虎いち早くも聞きて夜に紛れて跡を暗まし、関東は源氏の根拠なれば屈意の隠れ処なりとて、鎌倉さして落ち延びぬ。

これより武虎は鎌倉長史(穢多の古称)の頭領と成りて秦氏を弾氏と改め、自ら韜晦(とうかい)しけるとなん。
その後治承年間、頼朝兵を関東に挙ぐるに及びて、弾左衛門尉頼兼、事に預かりて功あり、左の御朱印を下されける・・・・】

また宝永四年四月、弾左衛門が肥前長吏助左衛門に送った文書にも、「相州鎌倉の住人、弾左衛門尉藤原頼兼在判、但し藤原を弾に改称す」とある。

このことが事実であるならば、弾左衛門は元来は秦氏であってのちに藤原氏に変り、さらに弾氏に変ったのである。ということは、藤原不比等は藤原四家が同一の先祖を持つというためのシンボルにすぎず、四家のなかには当然秦氏もいたのである。あるいは式家の宇合(うまあい)と広嗣らがそれであろうか。

『秀眞伝』に「われは伊勢の祖猿田彦」とあって、奈良盆地はもと秦王国の本拠で秦氏の領地であった。だから藤原四家のなかには秦氏が混じったとしても決っしておかしくはない。

秦氏は元来始皇帝の秦帝国の亡命者で、『北史』倭伝の秦王国、または『桓檀古記』の伊国、ないし伊勢国の支配者であった。『書紀』はこの人びとを別倭と書いて九州や南鮮の倭人と区別している。

学者は秦王国の所在地を吉備地方に望ているものもあるが、それすらも「畿内には大和王朝があった」という『記紀』の創作に引きずられた誤まりであり、吉備はかれらの通過点にすぎない。これは握造した史書を盲信する奴隷根性のもたらした重大な過誤である。

百済の降将郭務悰が唐務悰となり、その唐が藤になったとすれば、当時のわが国では唐人と秦人の区別が容易につかず、両者をともにシナ系豪族ということで藤氏としたのであろう。そしてさらに不比等をかざるために、鎌足を郭務悰と金庾信の合成人物として幻の英雄伝説を作ったのである。

今でいえば、美智子さんや雅子さんの祖父をアメリカ大統領とイギリス王の娘だったとなどといい出すようなものであるが、実際、歴史家は明治天皇を孝明の子だといい張って替え玉の天皇を擁護した。こんな系図の偽造を認めれば国家の将来は暗い。

藤原氏の台頭と反比例して秦氏の一族が急速に歴史の舞台から消え、同じように、百済王(くだらのこにしき)敬福の時に隆盛を誇った百済王氏が、道鏡、光仁の即位以降突然消えてしまう。このへんに歴史の謎が隠されていた。今まで、なぜこんなことに思いが至らなかったのだろう。すべては国民の奴隷化を強制した史書程造に始まったのである。

拙著『日本ユダヤ王朝の謎』および『秦始皇帝とユダヤ人』で述べたように、始皇帝の実父であった呂不韋はユダヤ人であったらしく、川瀬勇は「左衛門という名はユダヤ人に多いシモンの訳である」といっている(『日本民族秘史』)。してみると、「弾」はユダヤ人支族のダン族のことであろうか。朝鮮で白丁姓の一つとされる蛮氏が日本の弾氏と同姓であろう。朝鮮の車氏と池氏は日本の車氏と池田氏になったという。

マネトの『エジプト史』は、
「エジブト脱出以前のユダヤ人はエジプトに囚えられていたヒクソスの残党であった。かれらは屠殺などの賎業に従事させられていた」と述べる。その子孫が屠殺カーストの長の弾左衛門になったことは説得力がある。

のちに江戸幕府をたてた徳川家康は静岡市馬淵のささら遊女の私生子であって、幼くして奴隷商人の酒井家に買われたという。すなわち被差別部落の出身者だったから、かつては弾左衛門体制の支配下にあったことになる。

江戸時代の部落の人びとは、
「弾左衛門さまには及びもせぬが、せめてなりたや将軍に」
と唱ったという。それは弾家が秦王国の末裔という血統によって維持されたことと、家康が弾家の支配下から将軍になったことをいったのであろう。

このように望ると、奈良時代以降朝鮮からやって来た新羅系及び百済系天皇家の支配のもとで、秦王国の人びとは賎民社会という形態で長期にわたってゲットーを維持していたと考えられる。

複合社会だった日本
思うに、弥生農民の中にはインドから来たカーシ族、その支派であるクメール族と仾族のほかに、揚子江流域の苗(毛)族ではなく海南島の搖(やお)族がいて、かれらをアラビア海とインド洋からやって来たフェニキア系の海人が東表(豊日)国に至るタルシシ船で九州に運んで来たのである。東表国はのちに駕洛国になって半島にも進出した。新羅帝国はこの分派である。

日本語に「呉服」「呉庭(これは)」など呉音の影響が多いのはそのためであろう。日本をにっぽんと読むのも呉音であり、漢音ではじゃほんである。一月、二月を、いちがつ、にがつ、と、読むのも呉音で漢音では、月は、げつ、である。

駕洛国(からこく)または金官加羅の支配が奥州までのびたために、『東日流外三郡誌』は「荒吐族がアソベ族とツボケ族を支配した」といっている。すなわち荒吐族とは駕洛国の金氏と狗奴国(くなこく)の朴氏の子孫であった。

『書紀』を盲信して『三郡誌』を偽書であるとする無知なやからが多いが、本来、日本にはかれらが理解し、さまざまにあげつらうべき史書などは存在しなかった。日本の史書は常に政治的理由によって恣に握造されたものであった。

さて、奈良時代以前に富士周辺までがすでに秦王国の勢力圏で、その中には手工業の徒が多かった。この秦氏の国を「秦王国」といったのであるが、『晋書』によれば、金官加羅は秦王国をも間接に支配していたという。

その秦王国にはもともと先住民族のオロッコと苗族系の毛人がいた。オロッコは自称ウエツタ、またはウイッタといい、半地下の家屋に住んで独白の文化を有していた。このウエツタが稜多(ヱタ)の語源となり、のちに別所、院地などに住んで結束したが、道鏡、文鏡らの百済系王朝ができると新羅人のグループもウエッタの地に流れ込み、のちにはドロップ・アウトしたものも受け入れて構成が変化した。

語は戻って、五三二年に金官加羅が新羅に投降すると、倭の大王は駕洛(から)または金官加羅の王から邪馬壱国または安羅国の王に移った。しかし、「秦王国」の人びとは依然畿内においてチャイナタウンとして二重社会という独自性を守って、六六三年、白村江(はくすきのえ)の戦いのときに「秦王国」は新羅に味方した。

戦後、新羅の占領軍は「秦王国」を中心として倭国と合体させ、「秦王国」は手工業者を、「新羅」は農民と農奴を、それぞれ支配するという二重体制を続けた。

インドでは賎民とはスーダラとハリジャンをいうが、日本の弾左衛門体制はバラモンの伝統をひく殷人系の白丁を頂点とし、商業カーストであるヴァイシャ、そしてスーダラとハリジャンをもその下に包摂した。

白丁はいにしえのの祭祀カースト、すなわちバラモンの子孫であり、また殷文化の担い手でもあったが、やがて少数派になって祭祀官または書記として権力に奉仕した。この人びとが新羅系の、のちには百済系の天皇家によるクシャトリアの農奴支配という社会形態の中で、かつての「秦王国」をゲツトー化して支配したのであろう。一種のカースト制であった。

のちに南朝が地方に四散した時、その逃亡者たちを庇ったのはこの「秦王国」の後裔にあたる木地師や万歳師など被差別部落の人びとであった。また睦仁親王の生母であるという中山慶子も、天皇家の葬列を司るべき、差別された八瀬部落で育った人であった。

またこれに関連して源平二氏についていえば、武家という存在も天皇家と同じく系図偽造の産物であって、日本の権力は常に系図偽造によって生まれたといってよい。

武家はもともと朝鮮から熊本に渡来したニギハヤヒの兵団が分裂して、一はアヤタチのもとで山窩になり、一は白丁隼人を中心として皇室を祖とする系図を作って源氏武士団に転じた。

すなわち、公卿たちの家事奴隷となった白丁が立身してご主人の子孫だと自称したのである。勿論もとのご主人たちもその方が都合がいいからこの系図程造を承認した。

これよりさき、道鏡が自ら天皇になるために変造した『書紀』は、始めは新羅の武烈王を天智天皇としていたのに、道鏡の先祖を天皇にすれば自分も天皇になる資格があるという理屈で、百済王子豊璋をも天智天皇にして二人一役の天皇を作った。

この系図偽造によって、道鏡の兄文鏡、のちの光仁天皇も天皇になり上る資格が出来たのであるが、万世一系の理念はイカサマになり、一方では秦王国のままという二重社会も温存させた。

だからこのような先例こそ、殺された睦仁と天皇に化けた大室寅之祐という二人の人物を一人の明治天皇にするという系図の偽造、二人一役の創作を成功させたのであるが、それ位で驚いてはいけない。日本史は実は建国の始めから一貫して同じようなことをなし続けていたのである。

すなわち明治天皇は睦仁と大室寅之祐の二人を一役に化した合成人問であって、有史以来、帰化人たちが脈々として行ってきた系図偽造によって作られた天皇の替え玉であった。
だからこそ明治天皇は終生写真を撮らせなかったし、外国人が撮った一枚を宮内省が大金を出して買いとったこともあった。順序は逆になるが、ここから考えると殆んどの矛盾が理解できよう。

 武家と軍閥の日本史(一)
 1、始めに源氏である。桓武天皇の子の嵯峨天皇の子供たちが新羅の源花を慕って、源信、源常、源定、源潔姫など源姓を称したことは事実であろう。
 明治の末に発見された『石清水八幡宮回願文』には「源頼信は陽成天皇四世の孫である」とあり、「先人新発(満仲)、その先、経基、その先、元平親王、その先、陽成天皇……」となっている。従来、源氏は頼朝によって清和天皇の皇子貞純親王から出て清和源氏になったといわれていたから、この願文はそれと矛盾している。二つの系図が矛盾しているというのでは、その系図は共にいかさまだといわれてもしかたないであろう。
 これと同じように、『吾妻鏡』では「義経は自害した」とあり、また「戦死した」ともあって矛盾している。ともに握造であることが推測される。また源頼光の四天王の一人渡辺綱の系図だが、嵯峨天皇の子源融のあと昇、任、充となっていて、この三人は史書に残っていない架空の存在であり、綱は被差別部落になる渡辺村、のちの神戸長田村の出身であった。源氏の祖の満仲は経基王の子ではなくその家事奴隷で、のちに力を得た為に猶子を自称し、養子となりさらに実子と称したものであろう。日本史ではこういう時に屡々始めに猶子としておき、あとで養子から実子とする手法を行っていた。
 のちに源氏の系図をとにかく天皇の系図にくっつけようとする努力が、色々な形で試みられたのであろう。源氏(源家)とはその名の通り、新羅の武士である源花花郎の子孫を自称したものである。源義家の弟の新羅三郎という名前は、真偽はともあれ、源氏が新羅花郎の子孫であることを自ら主張したものである。(図1、イ、口、ハ参照)

 2、次に平家である。
 『尊卑分脈』によれば、桓武天皇の曾孫が高望王で平姓を賜り、高望王の子が国香、良兼、良将、良広、良文、良持、良茂で、国香の子が貞盛、良持の子が将門であるという。高望王は藤原不比等と同じく、平氏の一族を桓武天皇に結びつける役目を担ったものである。平氏といってもこれももと賎民であった。
 『今昔物語』には「紀伊国伊都郡に平維時の郎党で坂上晴澄という武士がいた。京で乗馬の公卿に会って土下座したところ、実は強盗で身ぐるみはがされた」という話が書かれている。このとき平家のものは公卿に土下座すべき存在であった。天皇の血脈ならこんなことはしない。『海東雑録』申命仁の条に「平山人、字は栄仲、号を亀峯という」とあり、新羅末期には花郎道がすたれて花郎が回寺とも居下ともいわれた。踊り子をつれて村々を巡業し、昼は踊り夜は売春させた。このような女を花嫁とも『トポクモリ』ともいったと述べる。「トポク」散乱すること、「モリ」は頭の毛で、合わせて乱髪のことである。これが清盛、重盛、宗盛などの「盛」になる。すなわち新羅花郎の平山人の子孫を自称するものが平家になったのである。
 『大乗院寺社雑事記』に「熊野に上陸した人びとが古来のしきたりに従って平姓を称した」とある。高望王の子孫になっている国香たちはこのような朝鮮からの新しい渡来者で、今でいうキョッポウであつて、高望王の家事奴隷もしくは下僕となり、のちにその権威を借りて猶子となり、さらに養子から実子と称したものであろう。このような源平武士団を天皇系図とつないだのは系図偽造を天職とした公卿たちで、源平両氏はのちに鉢屋族の忍者から秀吉や元就が出てその系図を美化して偽造したように、実は公卿の家事奴隷から立身したものである。1、2は拙著『国史正義』に詳しい。

 3、義経は衣川から北海道に逃げ、さらに十数名の部下とともに高麗船で海を渡ってウラジオストックの安東城、または蘇城(スーチャン)に入城した。しかし先行した平家の落人たちとうまく行かずに、吉林省のイーキントンで馬賊を平げて村長の娘をめとり、さらに熱河省の平泉から満州里に進んだ。そのとき義経を慕うもの約百人がひそかに安東城に渡って合流したが、やがてその数は他の亡命者も加えて数百人に達した。
 しかし日本の歴史家は朝敵となった義経が成功したのでは困るし、また元冠のとき神風が吹いたといいたい為に、あえてこの事実を否認した。これこそ奴隷根性に染まった学者の発想であった。
 筆者がかつてソウルで某国会議員に、「扶余王仇台が九州を侵略して神武になった。あなたたちも昔は日本を侵略したんだ」といったところ、「国を捨てたものが外国で何をやっても関知するところではない」といった。よくいうよ全く。あいた口がふさがらないとはこの事である。とにかく、即位以前のジンギス汗とその周辺の歴史はすべて義経の伝記を書きかえたものである一図2、イロ参照)。

 4、ジンギス汗が契丹の王族であった耶律楚材に対して、「オレはお前たちの仇である金国を亡ぼした」といった時、楚材は「私はすでに金国の臣である」と答えたというが、ジンギス汗を出した蒙瓦室章はもともと契丹の従属部であったから、この対話はおかしい。蒙古族は契丹に従属した蒙瓦室章の子孫であるが、ジンギス汗がもともと室章人ではなくて日本人であったことを知ればこそ、楚材は日本人より金人の方がまだしも身近だとして、このようにいったのであろう。3、4は拙著『義経=ジンギス汗新証拠』に詳しい。

 5、北朝一〇〇代の後小松天皇と足利貞成こと伏見宮貞成親王は共に皇妃を奪った足利義満のかくし子であり、従って貞成の子の一〇二代後花園天皇もその孫であった。公卿たちは全員このことを承知していたが、後小松天皇におどかされて鶴の一声で沈黙し、共同して国民をあざむくことにする。同じことは明治維新にも行われた。
 道鏡と光仁が新羅王家の女たちをたらしこんで、色仕掛けで作った天皇家はこの時すでに義満の色じかけで滅亡して、それ以降の天皇家は国民の無知と奴隷根性に寄生した虚構の民族宗教になった。ニセの王朝が続いたのである。公卿たちが先に皇統ではないといわれた道鏡の兄の文鏡、のちの光仁の即位を認めたことでも判るように、もともとかれらの社会は日本的な忠義という観念に乏しく、強い権力には黙って屈伏するしくみであった。いわば亡命朝鮮人、今でいえばキョッポーの相互扶助機関であった。いにしえの朝鮮連盟といったところか。

 だからのちに大室寅之祐が睦仁にすり替った時も、公卿たちは義満の時と同じように沈黙してしまった。この沈黙はいわば国民に対する天皇サギ、万世一系サギともいうべきもので、公卿たちの卑劣さは許すべきではないが、水戸学の水戸光圀の無能さを始めとして、今だこの事にふれない歴史家たちの無気力も責められなければならない。5は拙著『日本王朝興亡史』に詳しい。

 6、伊勢湾台風のとき旧家の土蔵から発見された『前野文書(武功夜話)』は原本から書きかえた写本であるといわれるが、木下藤吉郎については、「この人…色々と不審の儀これあらんより乱波(忍者)の類にて候はずや。その人は無頼(ぶらい)の輩の如く小身なれども武芸者にて、なりに似合わず兵法の嗜み深く、初めは得体知りがたし」と述べている。こんなところはわざわざ捏造したものではないであろう。日本では写本を否定したら歴史の研究は不可能である。

 秀吉は鉢屋出身の軒轅という下忍であり、毛利元就もまた鉢屋出身の上忍であった。「藤吉郎さりとてはの者なれば」と書いた『安国寺文書』は、秀吉は毛利と同じ鉢屋族だから秀吉を助けろといったものであろう。もちろん毛利氏の先祖を大江氏につなげた系図は偽作で、天皇家の系図と同じく血はつながっていない。元就が系図握造の利得者であり、そして忍者の支配者だったからこそ、長州忍者の吉田松陰は寅之祐を睦仁とすり替えるという忍法を考えついたのである。足利義満の血系を天皇にしていたのだから、誰が天皇になってもこれ以上悪くならない。

 これに対して、家康はささら遊女お大の私生子で長じて弾左衛門体制に属する願人になったが、たまたま松平家の当主にすり代った。この手口が慶喜によって明治天皇すり替えプランとなったのである。国家非常の時こそ忍者たちの出番であった。

 7、戊辰の戦い以後の明治天皇は孝明天皇の子の睦仁ではない。孝明天皇は岩倉の義妹の堀河紀子邸で、ひそかに便所の床下にひそんでいた伊藤によって刺殺された。岩倉が厠番(かわやばん)の非人を買収しておいたのである。ついで、その子の睦仁も岩倉に買収された朝廷の医者によって毒殺された。そのあと南朝の子孫と自称する長州麻郷の「饅頭職人」だった大室寅之祐が睦仁とすり替った。まさに長州忍法「変身の術」であった。

 松下村塾ははちや忍者の養成所であった。日本全国を隠密として廻り、あげくの果てにアメリカを見てこようとした吉田松陰も、もちろん長州の中忍であった。もと石見銀山を支配していた筆頭家老の益田家に毛利家から養子が入って上忍となり、幕末、益田家老が松陰を中忍として利用したのである。

 しかし、始めに天皇暗殺とすり替えをいい出したのは「成破の約」を守らんとした慶喜であった。生麦事件の前から薩摩は長州の撰夷論に反対して開国論に変わっていたが、将軍となるには幼稚すぎた家茂は、「薩摩のいいなりになるのはいやだ」といい出して慶喜を服従させ、横浜鎖港などとバカなことをいい出したから、松平慶永らはやむなく慶喜を唆かして家茂を毒殺させる。

 これよりさき慶喜はひそかに「成破の約」を守って、第一次征長戦のあと長州を東北に移そうといった西郷を、勝海舟によって説得させ、勝は「幕府は人材がないから雄藩会議で共和制をやろう」と西郷に教えた。さらに勝は念を入れて、慶応元年三月、西郷、坂本と共に長崎に有志を集めて、オランダ系アメリカ人フルベッキをして大政奉還後の政体を講じさせた。そして第二次征長戦を終結する準備として、あらかじめ勝によって坂本竜馬を動かせて薩長同盟を結ばせる。勿論これも慶喜のさしがねであった。

 だから慶喜の第二次征長戦は長州を手なずけて寅之祐を手に入れ、同時に幕臣をなだめる為の〈失敗した〉マッチポンプであった。慶喜はあらかじめ慶永を通じて久光に対して、家茂の暗殺とそれによる解兵を告知し、このことは高杉ら毛利藩の有力者にもひそかに伝えられていた。

 欧米海軍に対する薩長の敗北後、公卿たちもようやく孝明天皇の攘夷論はとても実行不可能だと判ったし、もともと北朝の天皇家が足利義満の子孫だということも承知だったから、結局、孝明天皇と睦仁の暗殺、天皇すり替えもやむなしとして、協力して国民をあざむくことになる。

 ところで、慶喜が自ら望んだように雄藩会議の議長になる為には、少くとも薩長を従わせるだけの武力が必要であり、それで慶喜は借金までしてフランス式軍装を取り入れた。しかし肝心の幕軍はフランスの軍事教官が匙を投げたほどのイクジナシであった。かくして慶喜も、命惜しさに敗戦を一日延ばしにしたヒロヒトと同じ運命になった。ところが、さきにインドの内戦を巧みに利用してインドを植民地化したイギリスは、パークスが中国領事のとき、再びマッチポンプの内乱によって巧妙に中国を支配することに成功した。

 これに味を占めて、パークスはフランスに傾斜した慶喜の下では日本がフランスの植民地になる、それならいっそイギリスの植民地にしようと思案して、「開国を認める天皇の下で薩長の政府を作れ」といって巧みに西郷、大久保をそそのかした。実は内戦による薩長と幕府の共倒れを狙ったのである。柳の下の泥鱒が三匹いると思ったのは、差別主義者イギリス人のさがであった。

 長州は倒幕のためひそかにためこんだ金塊を取り出して、パークスの肝入りでグラバーから一万四千挺の新式鉄砲を買って四境の戦いで幕府を撃退した。そのあと大坂城に退いた慶喜は、数の上では官軍に三倍する兵力を持っていたから、よもや烏羽伏見では負けることはない、いいところで講和できるというハラであった。しかし慶喜には金もなかったし十分なブレーンもなく腹心の手兵もなかった。ないないずくしの裸の王様だったから、情報も乏しくてこの戦いに大敗した。たのみとするナッパ隊も横浜にいたのである。戊辰の戦いは薩長の下級武士たちが自らの私欲の為に薩長同盟を利用して、雄藩同盟の議長になることが決まっていた慶喜を排除したもので、これはのちに西郷のいう通り、「私戦」でし。かなかった。

 8、薩長同盟には口頭の密約があった。家茂をやめさせて慶喜が代る、孝明天皇もやめさせて大室寅之祐に代えるというもので、この条項は締結のとき極秘の口約として書かれなかったが、のちに木戸が竜罵に頼んで支障のない部分だけを文書化した。その寅之祐は南朝の子孫と自称しているが学問的には証明できない。日本の歴史学者のいい方では、熊沢天皇と同じくニセモノになる。勿論万世一系なんてとんでもないサギであった。6乃至8は拙著『裏切られた三人の天皇』に詳しい。

 9、睦仁は女の子のように育てられて禁門の変では大砲の音で気絶してしまったが、明治天皇は鳥羽伏見の戦いでは馬上から官軍を閲兵したといい、またのちに佐賀の乱をおこす古武士の如き鳥義男と腕相撲をしても、左手では必ず勝ち右手では島が勝った。勝ったり負けたりだから八百長ではない。天皇は左利きだったが睦仁はそうではない。この種の話はいくらでもあって、誰が考えても二人は別人であった。

 ある国家公務員の読者が、「明治天皇の人相は孝明天皇までの天皇とは全く異質である。これを親子関係ありとするのは信じられない」といってきた。国民が政治に無関心な、奴隷的存在であるからこそ、常識で考えられないような「天皇すり替え」も可能だったのである。あとで述べるが、前十二世紀、イエメンの王女ビルキースは長兄エニを殺害して自らエニになりすましてエハスエ王のあとをついで女王になった。これも明治天皇の替え玉事件と同じで、雲の上の出来事だから成功したのである。

 10、家茂が孝明天皇にいわれて攘夷を約束しその期限を定めた為、長州はその期限に攘夷戦を始めて下関で敗北する。そのあとの薩長同盟は、「成破の約」を履行しようとする慶喜と勝海舟の命を受けて、坂本竜馬と中岡慎太郎が周旋したものであるが、そのとき久光は慶喜を雄藩会議の議長(筆頭大老)にすることに同意していた。久光がのちに廃藩置県に反対して慶喜に政治を委せろといったのはこのためであった。

 ところがイギリスは日本に内乱がおきることを狙ったから、慶喜をやめさせなければフランスの日本支配がやまないとして、「薩長だけでいう通りになる天皇を擁立して政府を作れ」といった。連合赤軍やオウムの麻原と同じ位のレベルの頭だった西郷、大久保、木戸らは舞い上ってその気になる。だからこの三人を明治の元老(元凶)という。竜馬はそんなこととはつゆ知らずに、慶喜が望んでいた大老というエサで慶喜に大政を奉還させる。

 慶喜も口先では攘夷といっても、「朕の本心は戦争はいやだ」などという二枚舌の孝明天皇にホトホト見切りをつけ、伊藤の天皇暗殺を見て見ぬふりをしてひそかに「成破の約」による南朝革命を実行していた。すなわち薩長同盟の真の黒幕は天皇暗殺を許し、自らは家茂暗殺にふみ切った慶喜だった。賊将とされた慶喜がのちに薩長藩主と並んで公爵となるのはこの功績による。

 しかし慶喜の奇策は慶永、久光というパイプで藩主レベルでは認められたが、当然、下級武士たちには十分説明されなかったし、岩倉は「慶喜なんか石田三成と同じ役割をやらせてから殺してしまえ」といった。三成が関ケ原で戦ったから徳川の天下ができたことをいうのである。

 幕府が鎖国したとき長崎だけを開港したため、朝鮮との貿易を担った長州と、沖縄の密貿易でかせいだ薩摩の他、長崎を担当した肥前、肥後などは集中的に先進文明を吸収した。薩摩の実力は一藩で幕府と拮抗していたし、長州もためこんだ黄金で洋式武装が可能であった。

 しかしこういう状勢ですんなり慶喜を新政権の親玉にしたのでは、尊王反幕で一貫した長州はともかく薩摩藩士には出る幕がない。そこで西郷はパークスの指令に従って慶喜を追放することに決して江戸では御用盗を働かせ、関東地方ではあの国定忠治の子供までも動員して幕府を挑発する。慶喜の大政奉還を悦んだ案や三条べったりの中岡は薩摩と岩倉の邪魔になった。のちに西郷のいった通り、戊辰の戦いはイギリスの兵器供与を当にして薩摩の手柄を作る為に慶喜を裏切った「私戦」であり、東北戦争は長州の私怨と土佐の功名の為の「私戦」であった。

 かくて維新政府は封建制度のシンボルであった慶喜を排除して薩長が支配する軍閥と藩閥の政権になったが、行政能力なき下級武士を登用した為に大混乱が生じて、農民一揆の絶え間がなかった

 11、鳥羽伏見の戦いも東北戦争も官軍に錦旗が翻った為に幕軍が敗れたというが、そんなことはのちの世の作り語で東北連合にも錦旗はあった。慶喜が官軍を恐れたのは錦旗のためではなくてユニオンジジャックのためであった。錦旗をいうなら、先に長州は賊軍であったが四境の戦いで勝って官軍に変ったではないか。勿論そのためには天皇のすり替えが必要であった。

 そうはいつても、幕軍は命惜しさの烏合の衆であり、長州奇兵隊は寅嘉の為には全員が命を捨てようとする決死隊であつた。幕軍は官軍の十倍もいたが殆どが刀槍の兵だったから、イギリスから買った銃器で武装した長州には敵しえない。

 長州はここで敗れればあとはない。しかもイギリスの通訳アーネスト・サトウは大政奉還の時に「これで慶喜は終りだ」といっていた。イギリスは倒幕戦のプログラムを承知して支援することにしていた。

 彰護の戦いの時も、幕軍は遠くからアームストロング砲を発射されただけで全員潰走した。

 大砲で攻撃されるのは判っていたのにそれに対する備えをしない。水鳥の羽ばたきで逃亡した平家と同じであり、ソロモン海戦でアメリカの爆雷で全滅したとき、どうして沈没したか判らなかった日本海軍と同じであった。しかしヒロヒトの海軍とちがって、慶喜、大久保一翁、勝などは、こんなことを知っていたからこそ、始めから天皇すり代えしかないとしたのである。だいたいこの時代の天下戦といっても、数千人の決死隊とすぐれた洋式装備があれば勝てた。長州の奇兵隊も始めは百人単位のものであった。

慶喜はかつて三千人の天狗党を見殺しにして処刑させ、わがものにすべき唯一の戦力を解体した。それはのちのヒロヒトの二・二六事件における青年将校の処刑に始まる皇道派の一掃と同じものであった。しかし慶喜も勝も天皇すり代えの発案者だったから、それをもち出してシャベらないと約束すれば命だけは助かる。西郷が横浜のイギリス公使パークスにいわれて降伏を受け入れたという。それもあったろうが、慶喜の沈黙の約束を信じたからこそであった。

 武家と軍閥の歴史(二)
 12、明治維新は成功したがその始めは多くの路線対立があった。岩倉ミッションはもともと木戸と岩倉がいっていた征韓論を主張して、国民皆兵による帝国主義的侵略戦争に参入することに決して帰国した。さきに西郷と薩摩の軍隊は廃藩置県で旧領主たちに恨まれていたから、西郷らをその毒にすることは、伊藤や岩倉だけでなく権力志向の大久保たちも一致して賛成した。
 明治天皇もかつて岩倉や伊藤らのいうまヽに、自分を天皇にした慶喜を裏切ったのと同じように、西郷を裏切った。天皇はこののちも伊藤に従って大隈を裏切った。常に臣下を裏切る王であった。これこそパペットの宿命であろう。
 かねて西郷は戊辰の私戦を反省してこの国の未来を危倶していたが、自ら入れ込んだ明治天皇が二枚舌を使って、岩倉や伊藤たちの謀略に賛成して自分を裏切るのをみて、天皇の資質に絶望して下野した。自分がやめれば天皇が反省するとでも思ったのか。オー・ノーである!パペットの天皇が反省するわけはない。

 13、大久保が川路大警視に命じて西郷暗殺団を送りこみ、かれらが逮捕されて白状した為に私学校兵団の叛乱がおこった。このとき木戸はしめたとばかり、大久保に対して「私学校の兵力を失うのは国の損失だ。バカなことをやった」といって怒ってみせた。川路は木戸にあやまったらしいが大久保はあやまらなかった。
 かくて木戸は「大久保を排除しなければ国が危ない」といって、伊藤にそのことを命じた。
 伊藤は陸奥にまず大久保暗殺を計画させたらしいが、陸奥が失敗したあと、川路に命じて大久保の警備をさせなかったと思われる。恐らく伊藤はかれの完壁な情報網によって島田一郎らの動向を知っていたのであろう。伊藤の情報網に綻びが見えるのは跡目になれなかった伊東巳代治が反逆したあとである。

 14、明治十四年、大隈重信は薩長専制を嫌ってイギリス型憲法の刷定を主張したが、伊藤は大隈から憲法制定の功を奪うために、あえてプロセイン型憲法を主張して、岩倉と明治天皇をまきこんで大隈を追放した。幕末から日英同盟に至る英国モノマネ路線を一八○度変えてこの国の奴隷制度を確立したのは一人の伊藤の功名心のためであった。

 15、そして伊藤は内政の失敗を戦争で糊塗しようとした。陸奥がイギリスと不平等条約の改訂を交渉した時、イギリスは「日清戦争と引換えなら改訂する」といい、伊藤はそれを承諾した。イギリスはかつて薩長と幕府の共倒れを狙ったが、この時も重ねて日本と清国の共倒れを狙ったのである。バカの一つ覚えであったが、伊藤はそれを承知して条約改訂と同時に日清戦争を行った。その結果、日本が倒れなかったから、イギリスはさらに日露戦争によって日露の共倒れを策す。しかし、戦後、明治天皇は猿山のボスのようになった将軍たちとともに、火力重視をやめて肉弾主義を採用した。兵隊の生命はサル並というのである。これは陸軍の弱体化、ことに天皇直属の参謀本部腐敗の原因となり、ついにヒロヒトに至って陸軍を全滅させる。

 伊藤博文を暗殺したのはのちに朝鮮の英雄となった安重根ではなく、ロシア陸軍の狙撃兵であった。伊藤とその仲間たちに対する弾痕を合計すると十二発で、七連発の安のピストルの弾丸よりも多かった。かつて閔姫虐殺のとき、伊藤は真犯人をかくして関係ない朝鮮人を犯人にしたてて処刑させたが、安重根もこの手で犯人に仕立てられた。このことをいうと朝鮮人の間では評判が悪いが、事実を事実として認めなければ真の友好はない。9乃至14は拙著『日本王朝興亡史』『日本侵略興亡史』に詳しい。

 17、天皇ヒロヒトの皇后になった良子は実は学習院の上級生だった難波大助の愛人であった。人前で口がきけないような弱虫だったヒロヒトに、良子の一族が良子をおしつけたために、「オレの女を取りやがった」と怒った大助が虎ノ門でヒロヒトを襲った。その時大助は伊藤がイギリスで買って来た空気銃を天に向けて撃っておどしただけであった。しかし真相の暴露を恐れた政府は、大助は共産党の秘密党員だなどというデッチアゲをやって大助の経歴まで抹殺して、すみやかに処刑してしまった。さきに大久保が江藤新平をさらし首にしたことといい、のちに下田歌子のスキャンダルをあばかれた腹いせに、歌子と情交した山県が幸徳秋水、堺利彦らを処刑させたことといい、日本の司法はしばしば不法なる権力の忠実なる番犬であった。

 18、二、二六事件で命をとられそうになったヒロヒトは、そののち常に自分の身の安全を第一に考えるようになった。ノモンハン戦争で小松原師団配属の砲兵旅団にいた鷹司中佐が敵前逃亡し、さらに東中尉こと、ヒロヒトの長女の婚約者であった東久迩宮盛厚がソ連軍の捕虜になったため、これらの事実を秘匿すべく、大敗のまゝでソ連と和睦して盛厚をとりかえし、さらにその秘匿を完全にするため、そのとき戻された捕虜の将校をすべて自決させた。作戦の拙劣を非難されることを恐れた参謀本部もこれに同調して、捕虜抹殺に協力する。こののちヒロヒトを長として聖域化された参謀本部の腐敗によって国軍の弱体化は眼をおおうばかりになった。

 どんな組織でも頭が腐敗すれば何もできない、いま日本の警察もグリコ事件以後失敗ばかりだが、聖域ができたためにキャリアの部分が機能しないからである。ちなみにグリコ事件の迷官入りは被害者側の佐賀コネクションが、公安審査会にいた同じ系統のボスMなるものにもみ消しを頼んだからだという。またグリコのあとでおどかされた某社はひそかに十億円を払ったという。権力の内部にひとたび聖域ができるとそれは無限に増殖する。国松孝次警察庁長官が狙撃された事件でも、早川某というオウムの幹部が「アッチから頼まれているヤツラの世話をしないといけない」といって、某国の手先が狙撃したことを仄めかしたが、今やこの某国もまた聖域なのである。オウムが自衛隊にもぐりこんで情報をあさっている目的は何のためか。

 19、これも廣橋興光氏の言であるが、日本軍が第二次世界大戦でシンガポールを陥落させた時、ルーズベルトはひそかに日本に講和を申し込んだという。

 東條は陸軍の撤退を準備して天皇ヒロヒトに終戦をすすめたが、ヒロヒトは二、二六事件の時の生命の恐怖から、軍人のテロを恐れて継戦を命じた。このとき東條はすでに戦線の縮少を考えて兵力の撤退を計画していたが、ヒロヒトの命令で逆に戦線を拡大しそれがやがて命取りになる。これが東條の敗戦責任のポイントである。

 20、さらに硫黄島を失ったときでさえ、アメリカは「日本が降服すれば満州は日本に任せる」といったが、ヒロヒトは軍人のテロを恐れて何の決断もできなかった。

 クラウゼウィッツは「一頭の羊が率いる百頭のライオンは、一頭のライオンが率いる百頭の羊に敗れる」といったが、この時のヒロヒトは恐怖心だけに支配された羊であった。こんな臆病者が最高権力者では国家は亡びるに決まっている。こう考えると、維新の時に「玉を取る」といって天皇を替玉としてすり替えたのは一時逃れの失敗策であった。

 もちろん天皇ヒロヒトでなくてジンギス汗、せめて信長程度の指導者がいれば、日本は勝てはしなくとも負けはしなかった。天皇制こそ差別の体制であり、一億の日本人が十億のシナ人を差別しながら支配することなんか出来はしない。天皇をかついで侵略戦争をやっても敗北するにきまっていた。しかし、仮にジンギス汗のような指導者がいても、日本のアジア支配はジンギス汗の元と同じように、長くは続かなかったであろう。戦後の日本は家康の鎖国令を再びとり戻したような政治をやってきた。

 21、マサチューセッツエ大教授のジョン・Dダワーは米国の公文書館で天皇ヒロヒトの発言を見出した。

@天皇は「日本人の心にはいまだに封建制の残澤がたくさん残っている。それも根こそぎにするには長い時間がかかるから占領は短かすぎない方がいい」といった。

A「神道を奉じる分子とその同調書は反米的だから警戒を要する」といった、というものである。
 ヒロヒトの発言は決して日本国の象徴たるものにふさわしいといえない。まさに偽帝の言というべきである。 イギリス人スターリング・シーグレツプは『The Yamato Dynasty』の「第十章、汚れた手」の中で、「敗戦直前、昭和天皇の側近たちがひそかにスイス銀行に財産を隠匿した」と述べている。じじつ、横浜正金銀行の株式の二二%はヒロヒトの名義であった。かれはいう。

 「膨大な戦利品の一部は潜水艦によって南米に運ばれ、スイス銀行ブエノスアイレス支店から入金された……マッカーサーはこのことを知っていたが敢えて知らないふりをした。計算するとその財産は四千億ドルであった」と。
 マッカーサーが承知して知らないふりをしたというのは汚職である。ヒロヒトがマッカーサーを買収したという噂の真偽は、今となっては調べようがないが、火の無いところに煙は立たないという。終りにシーグレツプを引用しておく(前掲)。

[Japan's imperial family has been neither brave nor honest. In 1989, when Hirohito died ,he had reigned for sixty-eight years, if you include his time as regent, and was Japan's longest-reigning historical monarch. For the last forty years of his life he presided vaguely, complacently and absentmindedly over a stunning economic transformation that made Japan the second most powerful industrial economy on earth. But as we have seen, he also presided over the complete degeneration of Japan's political and administrative system through runaway greed, to reach a humiliating impasse at the century's end.
We can hope that his death marked the beginning of the end of a merciless, mercenary era, but that may be overly optimistic. His funeral was - like Hirohito himself - a study in deceit and contradictions. President Ronald Reagan, true to form, eulogized Hirohito for his 'truly heroic role' in briging an end to World War II, while New Zealand's defence minister said that Hirohito 'should have been shot or publicly chopped up at the end of the war'. The head of an Australian veterans' league said, 'Going to his funeral would be like going to the funeral of the devil.' South Korean students threw fire-bombs at the Japanese Cultural Centre in Seoul to protest statements that war had broken out 'in spite
of Hirohito's wishes'.
It was Prime Minister Takeshita (already up to his tiny ears in bribery scandals) who sombrely intoned that 'Hirohito was a pacifist who resolutely brought to an end the war that had broken out in spite of his wishes, out of a determination to prevent further suffering of his people, regardless of the consequences to his own person'. The Japanese media, like a Greek chorus, shamelessly repeated this lyric of 'the selfless sovereign' who had suffered deep privation and humiliation for the sake of his people.l
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