2019年07月14日

ヘッセンの血に流れる古代イスラエル王国全盛期の記憶

ヘッセンの血に流れる古代イスラエル王国全盛期の記憶 果てしない夢】

2013/10/22 18:07
そもそも千年王国という発想はどこから来たのか?

ヘッセン陣営の本質的な部分ですので、数回に渡り、書こうと思いましたが、概略を今回書きます。
ヘッセンだけでなく、ヴェルフとか、メディチにももっと触れなくてはいけないのでメディチで書きはじめます。

時代はメディチ家全盛のヨーロッパ。
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メディチの家系を遡ると、カロリング朝の勇敢な騎士であったとか、医者であったとかいうことがわかりますが、貴族ではなかったようです。
逆にメディチは虐げられていたユダヤ人です。
彼らの基礎はカバラ、錬金術。錬金術と言っても、実際にゴールドを作れる訳もなく、カネ貸しの術ですね。

ここで、ローマ教皇庁とのつながりを深めることにより、当時禁止されていた金利で儲け、ロンドンとの両替で儲け、共通通貨を作ったのがメディチ家です。

当時、ヨーロッパ共通の通貨は無かったのですが、メディチ家の作った信用のある通貨フローリンは、今で言うユーロみたいなものになったのです。

メディチ家は、ジョヴァンニ・ディ・ビッチ(1360年 - 1429年)の代に銀行業で大きな成功を収める。メディチ銀行はローマやヴェネツィアへ支店網を広げ、1410年にはローマ教皇庁会計院の財務管理者となり教皇庁の金融業務で優位な立場を得て、莫大な収益を手にすることに成功した。これは教会大分裂(シスマ)の続くキリスト教界の対立に介入し、バルダッサレ・コッサなる醜聞に包まれた人物を支援し、対立教皇ヨハネス23世として即位させた賜物であった。1422年、ローマ教皇マルティヌス5世はモンテ・ヴェルデの伯爵位を授けようとしたが、ジョヴァンニは政治的な配慮から辞退し、一市民の立場に留まった。

現在では、日本にメディチの法人があります(笑)。
http://www.medici.ne.jp/news/index.html

●商号 メディチ・ワールド・アソシエーション株式会社(Medici World Association Co.,Ltd.)
●設立 2007年7月
●代表者 代表取締役 鈴木 直人 (有限会社レブル代表取締役)

 名誉理事  コスタンツァ・デ・メディチ (ご挨拶)

●所在地・連絡先・本社:横浜市西区浅間町5-386-6 LE-REBELLEビル602 TEL(045)314-2111
●主要取引銀行 みずほ銀行 横浜駅前支店

■主な事業内容

1. メディチブランドを活用した商品化展開
2. メディチ化粧品シリーズの開発・販売
3. イタリア・スペシャルツアーの企画
4. その他メディチ家とタイアップした事業企画の提案
5. メディチ家関連の日本での芸術文化展、講演等の企画事業
(美術展、演奏会、講演会など)


1. 日本の伝統芸術、文化継承を支援するための各種活動(コスタンツァ・デ・メディチ賞授与※注1)
2. クラブメディチ会員サービス
3. メディチ氏を介した各種案件(事業、資産等)の提案、協力企業の募集
4. 上記に付随するイベント企画・運営、プロモーション事業など

メディチ家の功績で有名なのは、ヘレニズム文化の復興。
今でも芸術、文化方面で活動中なんですね(笑)。

ヘレニズム(Hellenism)とは、ギリシア人(ヘレネス)の祖、ヘレーンに由来する語。その用法は様々であり、アレクサンドロスの東方遠征によって生じた古代オリエントとギリシアの文化が融合した「ギリシア風」の文化を指すこともあれば、時代区分としてアレクサンドロス3世(大王)(在位前336年 - 前323年)の治世からプトレマイオス朝エジプトが滅亡するまでの約300年間を指すこともある。また、ヨーロッパ文明の源流となる2つの要素として、ヘブライズムと対置してヘレニズムが示される場合もある。この場合のヘレニズムは古典古代の文化(ギリシア・ローマの文化)におけるギリシア的要素を指す。

ヘレニズム文化の復興=薔薇十字思想=ユダヤの支配する世界です。

薔薇十字思想とは、ユダヤ人のギルドネットワークを駆使した自作自演、情勢操作、マインドコントロールに長けた悪魔崇拝秘密主義の思想です。

では何故、ギリシャ文化の復興なのか?
ユダヤ人の恨み、憎しみ、怨念、執念はどこから来ているのか?
イスラエル王国の成立から分裂までの時代に彼らの求める理想が有ります。
そして、その後のギリシャ文化が有り、ローマ帝国からの迫害があるのです。
エジプトでの迫害から始まり、古代イスラエル王国を建国するも崩壊し、以来、

古代イスラエル
イスラエル人の出自

イスラエル人たちが始祖とするアブラハムは、旧約聖書によればバビロニアのウルからカナンの地へ移住してきたことになっている。旧来、この記述は紀元前2000年頃に古バビロニアのハムラビ王がウルを滅ぼした後の紀元前1800年頃の出来事と解釈され、旧約聖書を文化基盤の一つとしてきた欧米では未だに根強い説だが、おそらくは自民族の古さと筋の良さを誇るために作られた故事来歴の類である[要出典]。ヨルダン川東岸山岳地帯の居住者達が、外部からやってきた遊牧民の子孫である可能性はあるが、南部メソポタミアからの移住は考えにくくメソポタミア北西部からの移住だと考えられている[7]。

彼らの出自としてはこの他にも、カナン諸都市の周辺部に居た半遊牧民達が山地に逃れて定住したとする説、カナンの諸都市の奴隷や下層民が都市を逃れて定住したとする説、アラム地方から移住してきたとする説など様々である。おそらくは多様な出自を持つ人々であり、この中からヤハウェ神信仰を共有する部族がまとまってイスラエル部族連合が形成されたのであろうと考えられている[8]。 また、イスラエルという語源はヘブライ語で「秘密+神」を意味し、前1200年前後のエジプト文書においてエジプトに属する一地方の民とされていることから、イスラエル人はエジプト人の一部で、移住後もエジプトであり、民族としての共同体はあっても国家はなかったとする説もある[要出典]。

3代の族長

旧約聖書の「創世記」には、アブラハムの子のイサク、イサクの子ヤコブが後の古代イスラエル人の祖先であるとしている(ヤコブの別名がイスラエル)。しかし、この3代の族長は、元々は別の部族が保持していた族長伝説が合わせられたと考えられている。アブラハムとイサクの記述には圧倒的に南部ユダ地方に置かれた聖所との関わりが記されているし、ヤコブの記述にはサマリア地方やヨルダン川東岸の聖所が言及されていることから、アブラハムとイサクが南部のユダヤ系、ヤコブが北部やヨルダン川東岸系の部族の族長であったことが推測されるのである[9]。イスラエル部族連合がその結びつきを強固にして、祭祀・伝承・神話を共有していく中で三代の族長の物語が形成されていったのだろうと考えられる。

出エジプト

旧約聖書の中でも大事件として扱われるのが、モーセのエジプト脱走である。それによれば、ヤコブの子のヨセフの時代にイスラエル人はエジプトに移住し、エジプト王の厚遇を得て栄えたが、王朝が代わって迫害が始まり、イスラエル人たちはモーセに率いられてエジプトを脱走し、40年間荒野を放浪して約束の地であるカナンに辿りついたというものである。この放浪中のシナイ山でイスラエル人たちは神と契約を結んで十戒を授かるなど、ユダヤ教の中でも極めて重要なエピソードであり、仮庵の祭りなどの形で現代のユダヤ教にも継承されている伝承である。

旧来の解釈によれば、イスラエル人たちを厚遇した王朝は紀元前1730年頃から紀元前1580年のヒクソス(よその土地の王の意)であり、ユダヤ人を迫害したのはイアフメス1世が建国した第18王朝、モーセのエジプト脱走は諸説あるものの、前13世紀の第19王朝ラムセス2世(在位前1279-1213)の時代である。しかし、文書資料が豊富なエジプト側には一切の記録が無いことから、旧約聖書にあるような壮年男子だけで60万人という大規模な脱走事件が起きた(出エジプト12:37、民数記1:46)という訳ではなく、ごく少数者の脱走事件であったのだろうと推定する学者もいる[10]。が、エジプトが自身の不利益な記録を残していないことが多いため、エジプト側の記録がないだけで否定されるものではない。前述のイスラエル部族連合の中に「カリスマ的指導者に率いられてエジプトから脱出してきた」という伝承をもつ部族があって、その伝承が部族連合全体に広がって共有されていったのだろう[11][12]。さらにエジプト脱出の伝承に、シナイ山における神の顕現に関する伝承が結び付けられて、シナイ山での契約の物語が成立したものと考えられている。

カナン侵攻

紀元前12世紀頃からイスラエル人たちは山岳地帯からカナン地方に進出した。これを描いたのが旧約聖書のヨシュア記と士師記である。この進出が敵対的侵攻だったのか平和的な定住だったのかについては諸説あるが、預言者的かつ軍事的指導者である「士師」が相次いで現れてイスラエル人全体を導いたとする旧約聖書の記述などからは敵対的侵攻が多く含まれていたことは確かである。ただし、旧約聖書の描く士師は、神の意志を伝えるシャーマン的な女性、特定地域で住民同士の様々な問題の仲裁に当たった小士師、一部部族の軍事的指導者たる大士師など様々である。旧約聖書の編纂期に、これらの人々が「イスラエル全体を裁き導くカリスマ的軍事指導者」の系列としてまとめられたとみる必要がある。

ヨシュアはエフライム族です。
このヨシュアが全カナンを制圧した後にレビ族を除くイスラエルの十二族にくじびきによって分配


その後、同じエフライム族の預言者サムエルが、民の中から王を求める声が大きくなっていたので、王を作る事によるデメリットを説明したが、民衆は聞き入れなかったので、見てくれの良い、ベンヤミン族のサウルを最初のイスラエル王国の王にした。


サムエル記によると、紀元前1080年ごろペリシテ人が北部のガリラヤを制圧し、その地域のイスラエル人が奴隷となると、最後の士師で預言者でもあったサムエルは、サウルをはじめてのイスラエルの王として任じた。この王はペリシテ人との戦いの必要からでた軍事的な指導者であった。

サウル王の死後、サムエルに見出されたダビデは南部のユダ族をまとめて王となり、都ヘブロンを中心とした王国を建てる。これに対して北部イスラエルの11部族はサウルの死後、その子イシュバールを王とし、都マハナイムを中心に王国を建てた(サムエル下2:9-11)。これら二王国の内紛は7年以上続くが、イシュバールの死後、両国はダビデを王として認めることで和解した。

紀元前995年頃、ダビデは両王国の中心に位置するエルサレムのエブス人を倒し、以後、ここを拠点にペリシテ人らを退け、イスラエル王国(統一王国)を築いた。

ダビデの死後、紀元前963年にその子の一人ソロモンが国王を継ぐ。ソロモンは引き続き国の体制を整え諸外国との交易を盛んにし、またエルサレムに大きな神殿(エルサレム神殿)を建てた。この神殿は後世、第一神殿と呼ばれることになる。

ソロモンの死後、部族間の抗争により統一体制は崩れ、やがて10部族がイスラエル王国(北王国)として独立し、南のエルサレムを中心とするユダ王国(南王国)と分離することになる。以後両国は盛んに争ったが、この戦争によって国力が衰えた。

北王国の首都サマリアは紀元前721年にはアッシリアによって陥落した。アッシリアのサルゴン2世はサマリアのイスラエル人指導層などを奴隷として連れ去りまたは追放して、その土地にメソポタミアなどからの異民族を移住させた。ここにイスラエル王国は滅亡する。このとき故地から引き離されたイスラエル人たちは後に「失われた十部族」と呼ばれている。またサマリアにはアッシリア支配下の各地からの移民が移り住み、イスラエル王国の故地に残ったイスラエル人と移民との間に生まれた人々がサマリア人と呼ばれるようになった。サマリア人は、混血したことや移民たちの信仰をユダヤ教に混交させたことから後に差別される存在となった。

貢納国としてのユダ王国

一方の南部のユダ王国はアッシリアの貢納国として独立を保った。ヒゼキヤ(前715?-686年)が王のときにアッシリアとの間に戦争を起こすが、前701年にはエルサレムが包囲され陥落されそうになり、和議を結んで再び貢納国として独立を保った。 前612年にアッシリアが新バビロニアに滅ぼされたため、旧北王国の領土が解放された。これを受けてヨシヤ(前647-609年)は国内の宗教改革に取りかかった。前622年に祭壇から発見されたとする「申命記」の記述に従って、国内の祭儀と司祭制度を中央集権化した(申命記改革)。

前597年、新バビロニアのネブカドネザルがエルサレムに侵攻し、ヨヤキン王を含めた1万ほどのイスラエル人をバビロンに連れ去り捕虜とした。これは第一回の捕囚と呼ばれる。その後ユダ王国は新バビロニアの貢納国となったが、10年後にゼデキア王が完全独立を試みる。だが紀元前586年にはネブカドネザルによってエルサレム城壁が崩され神殿は破壊された。ここにユダ王国は滅亡。このときもバビロンに多くが捕虜とされて連れて行かれたが、これは第二回の捕囚と呼ばれる。捕囚されたユダヤ人たちのバビロンでの生活はかなり自由であった。

ユダヤ人のエルサレム帰還

新バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝(ペルシア)のキュロス2世(前600年頃-前529年)は、紀元前538年にイスラエル人を解放する。だがバビロニアでの生活を捨ててエルサレムに帰還したユダヤ人は2〜3割と言われている。それ以外の多くは自由意志でバビロニアに残留した。 ペルシア王ダレイオス1世治下の紀元前515年、ゼルバベルの指導でエルサレム神殿が再建された。これは第二神殿と呼ばれている。紀元前458年にエズラの指導のもとで二度目の集団帰還が行われた。またネヘミヤとエズラとがこの時期、国の整備とユダヤ教の形式とを固め、これが現代のユダヤ教またはユダヤ文化へ直接に影響している。ユダヤ人の民族外結婚を禁じたのもこの時であり、これによってユダヤ民族の独自性が今日にまで保たれている。

ヘレニズム時代[編集]
アレクサンドロス大王[編集]

紀元前333年にマケドニア王国のアレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)がペルシアのダレイオス3世を打倒すると、ユダヤ地方もギリシアの支配下に入った。ヘレニズム国家支配時代の始まりである(ヘレニスト)。

ヘレニズム国家による支配は紀元前143年まで続くが、ギリシアの自由政策のもとユダヤ人による自治と宗教の自由は守られ国内の商業も盛んとなった。同時にユダヤ地方がギリシャ風のヘレニズム文化の影響を受けていくことになる。

プトレマイオス朝の支配[編集]

アレクサンドロス大王が逝去すると、その領土は将軍たち(ディアドコイ)によって分割され、その支配をめぐる争いがおきた(ディアドコイ戦争)。ユダヤを含むシリア地方南部ははじめエジプトを領したプトレマイオス朝の支配を受けたが、この地方に食指を伸ばすセレウコス朝(シリア)との間で何度も戦いが繰り返された。

この時代、紀元前3世紀の中ごろ、エジプトのアレクサンドリアにおいて聖書がギリシャ語に翻訳された。これを「七十人訳聖書」という。

七十人訳聖書(しちじゅうにんやくせいしょ、羅:Septuaginta, 「70」の意。LXXと略す)は、現存する最古の旧約聖書の 翻訳の一つである。ファラオの命でヘブライ人の経典(旧約聖書)をギリシア語に翻訳した聖書であると伝えられ、紀元前3世紀中頃から前1世紀間に、徐々に翻訳・改訂された集成の総称を言う。ラテン語読みであるセプトゥアギンタとも呼ばれる。Septuaginta の由来については諸説あるが、旧約偽典のアリステアスの手紙の伝える、エジプトのファラオ・プトレマイオス2世フィラデルフォスの命で、72の訳者が72日間で「律法」(モーセ五書)の翻訳をなしたという伝説によるという説が有力である(その構成については旧約聖書の項を参照のこと)。伝統的に七十人訳とされているものには、ヘブライ語並びにアラム語で書かれた旧約聖書のギリシャ語訳のみならず、旧約聖書からは除外された文書で、これも同じくユダヤ人によって著作された文書で紀元前2世紀から紀元1世紀の間に完成した、経外書、外典、偽典などの名で知られる文書群も含まれる。この中にも原文はヘブライ語あるいはアラム語で著作された、と考えられ、その存在はギリシャ語、シリア語、ラテン語、エチオピヤ語などでしか伝わっていなかったものもある。その一部は、例えば、トビト書などのようにアラム語の形で死海文書の中に出て来たものもある。そのほか、第2、第3、第4マカベア書などのように、当初からギリシャ語で著作されたと考えられるものも同様に七十人訳の一部を成す。

セレウコス朝の支配[編集]

セレウコス朝は数次にわたる戦いのすえ、ついに紀元前198年にユダヤ地方を含む地域の支配権を獲得した。

紀元前175年にはセレウコス朝のアンティオコス4世エピファネスがプトレマイオス朝を圧迫し、アレクサンドリアも陥落寸前となった。ここにおいて急速に勢力を伸ばしていた共和政ローマが中東における巨大勢力の誕生を危惧して、中東情勢に介入したため、プトレマイオス朝は滅亡を免れた。このアンティオコス4世はユダヤにおいてもヘレニズム化政策を強引に押し進め、エルサレム神殿での異教崇拝などを強要したため、ユダヤ人の反感は高まっていった。

ハスモン朝、ヘロデ朝とローマ支配時代

マカバイ戦争とハスモン朝

詳細は「マカバイ戦争」および「ハスモン朝」を参照

紀元前167年になると祭司マタティアとその息子たち(マカバイ家)をリーダーとする反乱が勃発した。マタティアがなくなると息子のユダ・マカバイ(ユダス・マカバイオス)をリーダーとして戦闘が継続され、紀元前164年にエルサレム神殿を奪回した。ユダの死後は兄弟のヨナタンが指揮をとった。

この一連の戦いをマカバイ戦争といい、この戦争のユダヤ人側の観点による記録が「マカバイ記」である。ヨナタンとその兄弟シモンは諸勢力との合従連衡をたくみに繰り返し、紀元前143年にはセレウコス朝の影響を脱してマカバイ家による支配を確立させた。ここに実に数百年ぶりにユダヤ人による独立国家が回復した。

この国家は紀元前130年ごろ、セレウコス朝の支配力の増大によって、一度は独立を失ったが、セレウコス朝の内紛によって再び独立を獲得した。シモンの息子ヨハネ・ヒルカノス1世は父の死後、父の保持していた大祭司にして首長というユダヤ神権政治の権威を世襲した。このマカバイ家の世襲支配によるユダヤ独立国家を、祭司マタティアの曽祖父ハスモンの名からハスモン朝という。

ヨハネ・ヒルカノス1世は軍事的才能と傭兵の力によって支配領土を拡大することに成功した。ハスモン朝のやり方は伝統的なユダヤ人の反感を買うこともあった。この時期にユダヤ教敬虔主義からエッセネ派、ファリサイ派、サドカイ派が起こり、特にエルサレム神殿祭司層を中心としたサドカイ派と在家で民間基盤のファリサイ派の対立が激しくなる。

ハスモン朝の内紛とヘロデ朝の成立

詳細は「ヘロデ朝」を参照


ヘロデ(ヘブライ語: הורדוס、英語: Herod、紀元前73年頃 - 紀元前4年)は、共和政ローマ末期からローマ帝国初期にユダヤ地区を統治したユダヤ人の王(在位:紀元前37年 - 紀元前4年)である。イスラエルレビ族が祭司王として統治したハスモン朝を破って、ユダヤ人ヘロデが統治するヘロデ朝を創設、ローマとの協調関係を構築した。エルサレム神殿の大改築を含む多くの建築物を残した。だが、猜疑心が強く身内を含む多くの人間を殺害した。息子たちと区別してヘロデ大王とも言われる[1]。

紀元前89年頃の東地中海およびオリエント

ヨハネの子で親サドカイ派のアリストブロス1世がはじめて「王」の称号を名乗った。以後、弟アレクサンドロス・ヤンナイオス、さらにその死後、親ファリサイ派の妻サロメ・アレクサンドラは息子ヨハネ・ヒルカノス2世を大祭司にたてて統治した。

サロメが死ぬと、ヨハネ・ヒルカノス2世が王位を継いだが、弟アリストブロス2世は武力にものを言わせてこれを奪取。王位についた。

紀元前63年にはローマのポンペイウスが中東へ遠征してきてセレウコス朝を滅ぼした。当時のハスモン朝はヨハネ・ヒルカノス2世とアリストブロス2世の争いが続いていた。両勢力はローマへの接近を図るが、ローマは無能なヒルカノス2世のほうが傀儡にふさわしいと考え、支援したため、アリストブロス2世は死に追い込まれた。

ユダヤはこうしてある程度の自治を認められながら、ローマのシリア属州の一部となった。この時期、ローマに取り入ってユダヤの実権を握ったのはヒルカノス2世の武将でエドム人系のアンティパトロスであり、ユリウス・カエサルからも地区統治の委任された。紀元前43年にアンティパトロスが暗殺され、息子ファサエロスとヘロデが後継となってからも親ローマ路線を取った。カエサル暗殺後はガイウス・カッシウス・ロンギヌスへ味方し、フィリッピの戦いでカッシウスらが敗北した後はマルクス・アントニウス、アクティウムの海戦でアントニウスが敗北した後はアウグストゥスへ従った。

紀元前40年、先の王アリストブロス2世の息子アンティゴノスが隙に乗じてヒルカノス2世とパサエロスを捕らえると、ヘロデは辛くも脱出。ローマにわたって支援を要請した。

ヘロデはユダヤの王という称号を認められ、エルサレムに帰還してアンティゴノスを撃破。紀元前37年に捕虜となったアンティゴノスが処刑されハスモン朝が滅亡し、ヘロデが開祖となるヘロデ朝が成立した。大王と称されたヘロデは純粋なユダヤ人でなかったので、ヒルカノス2世の孫マリアンメ1世を妻にするなどハスモン朝の血統を利用しながら、自らの正当性を確立していった。そして不要となるとハスモン朝の血を引く人々をすべて殺害していった。

猜疑心にとりつかれたヘロデが紀元前4年に血にまみれた生涯を終えると、その息子たちによってユダヤは分割統治された。ローマはユダヤ王の称号をヘロデの息子たちに与えず、ユダヤ、エルサレム、サマリアをヘロデ・アルケラオスが、ペレヤとガリラヤをヘロデ・アンティパスが、ゴランとヨルダン川東岸をヘロデ・フィリッポスがそれぞれ統治した。結局アルケラオスの失政のため、ユダヤはローマの総督による直轄支配となった。

古代エジプトの最後の300年間を統治していたギリシャのプトレマイオス朝の時代を取り戻そうとしたのがルネッサンスです。

アレクサンドロス3世(古希: Ἀλέξανδρος Γ'、紀元前356年7月? - 紀元前323年6月10日、在位紀元前336年 - 紀元前323年)、通称アレクサンドロス大王(古希: Ἀλέξανδρος ὁ Μέγας)は、アルゲアデス朝のマケドニア王、ヘラス同盟(英語版)(コリント同盟)の盟主、エジプトのファラオを兼ねた人物である。ギリシア語ではアレクサンドロス大王であるが、この場合は英語風に読んでアレクサンダー大王またはアレキサンダー大王とすることも多い。

ハンニバル[1]、カエサル[2]、ナポレオン[3]などの著名な歴史上の人物たちから大英雄とみなされていた。旧約聖書やコーラン、シャー・ナーメ、ゾロアスター教など多様な民族の教典にも登場する。現代でもアレクサンドロスの名に関する名をつける人は多い。1941年からギリシャで発行されていた旧1000ドラクマ紙幣や、1926年 からアルバニアで発行された旧1レク紙幣などの肖像に使用されていた。

アレキサンダー大王がファラオに即位する為にアモン神殿に向かう途中道に迷いますが、3本足のカラスの導きで無事たどり着きます。
神武東征でも3本足のカラスの導きで畿内に上陸して、後初代天皇に即位しています。
この、アレキサンダー大王の物語と神武天皇の物語が酷似している話は有名ですね?
これは単に、日本に来た渡来人の話が古事記の元になったからです。
そして、約300年後に登場するクレオパトラ7世。
クレオパトラの先祖はマケドニアの将軍アンティパトロスです。
アンティパトロスはアレクサンドロス3世、つまりアレキサンダー大王に仕えていた将軍です。

アンティパトロス(希:Αντίπατρος、ラテン文字転記:Antipatros、英:Antripater、紀元前397年−紀元前319年)はピリッポス2世とアレクサンドロス3世に仕えたマケドニアの将軍である。

紀元前336年にピリッポスが暗殺され、その息子のアレクサンドロス3世が王位に就くと、アンティパトロスは20歳の若い王を支えた。アレクサンドロスの東征の際、アンティパトロスはマケドニア本国に残り、王国の統治、反乱の種のくすぶっていたギリシアを任された。

アンティパトロスはアレクサンドロスの母オリュンピアス(英語版)とは当初は友好的な関係で、アレクサンドロスは実は彼の子だという噂が流れるほどであったが、この気の強い王母との関係は徐々に悪化した。現に、東征の間、アンティパトロスとオリュンピアスはアレクサンドロスへと互いを中傷する手紙を書き送っている。

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クレオパトラはジュリアス・シーザーの愛人であった事も有名です(政治的な目的の説有り)。

その前は同じくローマの軍人、グナエウス・ポンペイウス・ミノル(小ポンペイウス)と密接な関係に有ったと言われています。

グナエウス・ポンペイウス(・マグヌス)(ラテン語: Gnaeus Pompeius (Magnus)、 紀元前75年頃 - 紀元前45年4月12日)は、共和政ローマ末期の軍人。同名の父グナエウス・ポンペイウス(以下、大ポンペイウスと表記)と区別するため小ポンペイウス、ラテン語では(グナエウス・)ポンペイウス(・マグヌス)・ミノル((Gnaeus) Pompeius (Magnus) minor)とも称される。母は父の3番目の妻・ムキアで、セクストゥス・ポンペイウスの兄。

紀元前49年、父がガイウス・ユリウス・カエサルとの内戦に突入すると、小ポンペイウスも父に従ってエジプトへ渡り、艦隊を率いた。また、エジプトではクレオパトラ7世と親密な関係にあったとされる(プルタルコス「英雄伝」アントニウス26)。紀元前49年8月、ファルサルスの戦いで父が率いる元老院派が敗退した後は、父と別れてアフリカ属州の州都ウティカへと逃れた。

さらに、彼女はシーザーの死後、同じくシーザーの部下であったアントニウスと結婚。激しく愛し合い、自殺しています。

マルクス・アントニウス(ラテン語: Marcus Antonius、紀元前83年1月14日? - 紀元前30年8月1日)は共和政ローマの政治家・軍人。第二回三頭政治の一頭として権力を握ったが、その後はガイウス・ユリウス・カエサルの姪の息子オクタウィアヌス(後の初代ローマ皇帝アウグストゥス)に敗北した。ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『アントニーとクレオパトラ』でも知られている。

アントニウス死後のアントニウス家[編集]

アントニウスの死から約10日後にクレオパトラも自殺した。クレオパトラは生前にアントニウスと同じ墓に入れるよう遺言していたが、オクタウィアヌスはそれを認めた。


対ローマ戦争 [編集]

詳細は「ユダヤ戦争」、「キトス戦争」、および「バル・コクバの乱」を参照

ローマ帝国はユダヤでサンヘドリン(最高法院)に宗教的権威を認めながらも政治的権威を与えなかった。ユダヤは総督の支配におかれたが、総督たちがユダヤ文化を軽蔑し、失政を繰り返したこともユダヤ人の反感を募らせた(そもそもユダヤ人にはローマ帝国の国是である政教分離の概念が無かった)。その間、ヘロデ大王の孫アグリッパ1世がユダヤの統治をしたこともあったが、死後はまた総督直轄に戻された。

66年、ついにユダヤ人の不満が爆発し、ここに独立を目指してユダヤ戦争(第1次ユダヤ戦争)が勃発。しかし70年にはローマ軍が半年にわたってエルサレムを包囲し兵糧攻めにしてついに陥落、神殿も破られた。(この間の事情はフラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』にくわしい。)。

115年からはキトス戦争が起き、132年にはバル・コクバに率いられた反乱(バル・コクバの乱)がおきた。バル・コクバはユダヤの独立を達成し、キリスト教徒を除く全ユダヤ人からメシアであると承認された。彼はエルサレムで二年半の間イスラエルの大公(ナーシー)として統治した。彼の公国は135年にローマ帝国によって征服された。

大きな反乱が続発し、ユダヤ人の統治の困難さに手を焼いたローマ人はユダヤ地方からユダヤ色を一掃しようと考え、ユダヤ人が忌み嫌っていたペリシテ人の名前をとり、この地方をパレスチナと名づけた。ユダヤ人たちはこれ以前にもすでに広くローマ帝国内や各地に離散していたが、ここに再び多くのユダヤ人が離散を余儀なくされ、長いディアスポラの時代が始まった。ローマによるエルサレム神殿破壊の結果、神殿祭儀中心の古代ユダヤ教は終焉し、以後ユダヤ教の学問の中心はガリラヤ地方に移り、ファリサイ派の伝統を下地に、今日の現代ユダヤ教にまで発展するユダヤ教の原型ができた。


いかがでしょうか?
パレスチナの由来がユダヤ人が忌み嫌っていたペリシテ人だったんですね。
まとめると、カナンの地に王国を築き、ダビデ、ソロモンといった王が君臨した黄金の時代。
これがBC1000頃だったので、これを千年王国と呼ぶ。
その後、イスラエル王国とユダ王国とに分裂。
イスラエル王国は衰退。

ユダ王国は独立を保ったが、結局はバビロン捕囚、アッシリア捕囚等を経ます。
そしてギリシア、エジプト等に散っていったユダヤ人は、ヘレニズム文化の影響を受けます。
その中で死海文書が作られたり、サドカイ派とバリサイ派の争い等がありました。

その後、エジプトがギリシャに、吸収され、クレオパトラ等の時代が有りました。
クレオパトラが利用したのがローマ帝国のシーザーやポンペイウス、アントニウスで、
逆にシーザーやポンペイウスもクレオパトラを利用したといえるでしょう。
そしてギリシャがローマに吸収されると、ローマ帝国の中枢に潜り込んだ勢力いました。
ローマに取り入ってユダヤの実権を握ったのはヒルカノス2世の武将でエドム人系のアンティパトロス。
上のクレオパトラの先祖ではないですよ。もう一人のアンティパトロスです。

その息子がヘロデ。
ヘロデはローマの傀儡となりユダヤの王になる。
また、キリストがエッセネ派から出て来たといわれています。
ここでキリストの系図を書きますと、

エッサイーダビデーソロモンーレハブアムーアビアーアサーヨシャファトーヨラムーウジヤーヨタムーアハズーヒゼキアーマナセーアモスーヨシヤーエンコヤーシャルティエルーゼルバベルーアビウドーエリアキムーアゾルーサドクーアキムーエリウドーエレアザルーマタンーヤコブーヨセフーイエス

となるわけで、エッサイーダビデーソロモンから出ている訳です。

このイスラエル王国のダビデ王、ソロモン王の繁栄を、ずっと、ずっと、再現しようとしているのが、ヘッセン陣営のカラスとか、NWOを目指している人間達の思想なんです。

本当なんですよ!!
それでは

追記:この記事を書いている時に、タイムリーに名無し先生のコメントが入りましたので、勝手に転載させていただきます。

(転載開始)
先週から上海に集まり、良からぬ計画を立てている連中が居るようです。この会議に出席し本日帰国した本人が2時間も電話で話してくれました。リーマンショックから、それほど年月も経過していないのに、今度は中国政府からゴーストタウンをタダ同然で払い下げさせ、ネオ満州国を作りユダヤ人を入植させるつもりのようですね・・・

この客家人系、日本裏皇室の下部組織は、4Cから6Cにかけ中原から南下しアジアを中心に世界各地に散ったと自称する者たちです。

彼らの計画通りに事が進めば、WW3後にイスラエルはネオ満州国に移ることになります。勿論、結果だけを見た世界の人々は、ユダヤ人が今度はアジアを乗っ取ったとネットで噂するのでしょう。客家人が安価で払い下げられた「鬼城」をユダヤ人が高額で買い取り、そこに新たなイスラエルが出現する為の準備作業が、中国内でも富裕層が多い、独立意思を有する海岸部=上海で進められているのです。
(転載終わり)

私も実際に中国のヤバさを日常的に聞かされています。日本企業は絶賛撤退準備中ですよ。
中国にはこのようなゴーストタウンがいっぱいあります。

コメント
No title
はじめまして。興奮冷めやらぬまま故にコメントさせて頂きます。

恥ずかしながらヘッセンについては名前すら知らなかったのですが、
ヘッセン=エッセネというヒントを頂いて一皮剥けた気がします。
昔読んだ本では、米国を牛耳っているのは岩フェラさんではなくカナダのオッペンハイマー財閥であり、
ローデシアでロス茶さんをパシリに使っているのが現地財閥のオッペンハイマーだといった程度の知識でした。
でも資料が殆ど無さそうなので、それが頭痛の種ですね。

さて、エントリーの内容が独創的で面白かったので、新しい順から今年初めまで通して熟読いたしました。
なるほど、4月に啓発され大きな転換期を迎えたことが一目瞭然です。
眼から鱗状態で読み進んで行くと、他ブログの単なる引用だけど、6月初めのエントリーの過激な内容に慄然とさせられたのです。

エジプトにいた時代は暗黒と破壊の神セトを信仰する人々と蔑まれた黄色い肌の古代ユダヤ人。
邪神(セト)を信仰する人々(アン)から、セトアン→セッタン→サタンになったという説もありますが。
そんな彼らがレビ族と別れ、滅亡後に食人国である支那朝鮮を経て、数百年後には日本(ヒノモト)を侵略支配した訳です。
当然ながら悪魔崇拝者たちが支那朝鮮の食人慣行を宗教の中に取り入れるのは自然の成り行きなのでしょう。

元ネタの方も読んだのですけど、この優秀な易者さんは人種的なことには無頓着なようで。
ただ一箇所だけ批判するとすれば、ヤタ=垂仁天皇は儒教によらず「仁」の境地に至ったとする点ですが、それは大間違いである。
何事であれ規範とすべきもの(事象等)が存在しなければ、女尊男卑社会である朝鮮半島渡来の未開蛮族を啓蒙する・・・・
啓蒙とは即ち無知蒙昧を啓く(イルミナティーw)契機にはならない。

ヤタ=垂仁天皇は何を以って規範としたか考えると、女尊男卑でも男尊女卑でもない習俗を保っていた文明的人種に求められる。
その規範こそが、賤民として奴隷にされていた原住民である日本人の高度文明以外には有り得ない。

実は、部落のことを調べていたのですが、諦めかけていた頃に貴ブログへ辿り着きました。
お陰様で結論へと至る第一歩に踏み出すことが可能となったのです。

管理人様の今後の更なるご活躍を期待しております。
ではまたいずれ
2013/10/30(18:33) 神田川蛇蔵 URL 編集


九鬼家
ちなみに九鬼家は4の恵州客家に当たります。

2013/10/23(06:36) URL 編集

No title
アブラハムは前2000年頃、シュメール文化の中心地、首都ウルで生まれたとされています。ある日、父、テラは家族全員を連れて遥か北方の彼方にあるタガーマ州のハランに移住する決断をします。ノアの大洪水後、ノア一家がアララト山系から降りたのも同地とされています。ここでアブラハムはヤハウェ神により選民となったという話です。これがチグリス・ユーフラテス川版の高天原と言う話です。
これに対して客家の源流は、黄河流域中部のいわゆる「中原」にあって、北は山西省長治県一帯、西は河南省霊宝県一帯、東は安徽省港南、南は湖北省の黄州、その中心は、河南省の予州とする「中原の居民」であったとしています。

中原の漢族は、泰漢の頃から北辺の匈奴・東胡族等の騎馬諸民族の侵冦と、たびかさなる黄河の氾濫の自然的災害の影響からして、その南遷が開始され、本地=The puntisと称せられる先駆的業団が華南に定着していきました。客家は本地と同じく中原の漢族であるが、その南遷の時期は、本地より一時期遅れて、東晋五胡の乱からその南遷の開始をみています。

・第一時期(三一七〜八七九)東晋五胡の乱の影響をうけて、中原から湖北省・河南省の南部、安徽省・江西省と揚子江の南北両岸に沿って江西省の鯖江の上下流への移動

・第二時期(ハハo〜一一二六)第一時期の旧居から、安徽省南部、江西省の東南部、福建省の西南部から広東省の北東の辺界への移動

・第三時期(一一二七〜一六四四)金人の南下と、宋の高宗の南渡(揚子汀一の渡江)の時期に、客家の一部は第二時期の旧居から広東省の東部と北部へ移動

・第四時期(一六四五〜一八六七)明末清初の満州族の侵冦に際して、客家の先行した一部が、第ニ〜三時期の旧居から、広東省の中部、四川省・広西省・湖南省・台湾から、貴州省・雲南省・西原省の会理まで移動し、さらに同時に東南アジアに向って進出した。

・第五時期(一八六七以後)同治年間(一八六二〜一八七四)広東・広西事件、太平天国の乱(一八五〇〜一八六四)の影響をうけて、客家の一部が広東省南路から海南島、さらに東南アジア各地へ移動

東南アジア地域に進出した客家柳を出身州県別に大別すれば、ほぼ次の進りにすることができます。
1.永住客家(福建省永定県)
2.嘉応州客家(広東省嘉応州の梅・五華・蕪嶺・平遠・興寧の5県)
3.大埔客家(広東省潮州府大埔県)
4.恵州客家(広東省恵州府、恵州の海豊・陸豊の両県の海陸豊客家も含む)

東南アジア各地で客家の組織する主要な下位団体も、大体上の地域別で、水定会館、応和(嘉応州)会館、茶陽(大埔)会館、恵州会館、豊永大公司(福建省水定県、広東省潮州府大埔県と豊順県の三県)等が目立った存在であり、主として臨海の福建・広東両省に居住するものが国外に進出して、華僑社会の「客家聊」を編成しているといって良いでしょう。

2013/10/22(22:22) URL 編集
posted by r at 09:31| Comment(0) | ヘッセン