2016年01月20日

突厥・ハザール興亡史論 4 非定住放浪民イスラエル


十二支族考 索引

 http://michi01.com/tendoh/356isl26720315.html                     

 突厥・ハザール興亡史論 4 非定住放浪民イスラエル
        (世界戦略情報「みち」皇紀2672(平成24)年3月15日第356号)


●非定住放浪民イスラエル
メルエンプタハ王の率いるエジプト軍がナイル下流域の西方から侵攻してきた海の民とリビアとの連合軍と戦った戦争を「ペルイレル( Perire )の戦い」というが、これがいわば本土防衛の戦争であったのに対して、エジプト帝国の覇権回復のためにシリア方面への対外遠征もメルエンプタハは行なった痕跡がある。
 一八九六年にテーベ西域のメルエンプタハ葬祭殿でフリンダース・ピートリー(一八五三〜一九四二)によって発見された「メルエンプタハ戦勝碑」(カイロ博物館目録三四〇二五)は碑文にイスラエルという言葉が歴史上初めて登場することから「イスラエル碑」と呼ばれる場合もあるが、適切な名称ではない。
 というのも、碑文全体はテヘヌー(リビア)に対する勝利とオン(ギリシア時代以降はヘリオポリスと改称)におけるリビア酋長メレウィに対する神々の神判(もちろん有罪)とを記述することに主眼がおかれているからだ。碑文そのもの趣旨から命名するとすれば、「テヘヌー碑」と呼ぶ方がむしろ相応しいが、本稿では「メルエンプタハ戦勝碑」と呼ぶことにする。
 確かに「イスラエル」という語が登場するが、碑文の最後の締め括り部分でエジプトによって征服されたシリア・カナン地域の状況が述べられている中に、ほんの一言触れられているにすぎない。こうした些細な部分にもユダヤ・キリスト教的偏見による事実の歪曲が及んでいるのは、嘆かわしいことだ。
 テーベ西域で発見のメルエンプタハ戦勝碑の結語部分は、諸訳を斟酌して分かりやすくすると、こうなる。

 敗れた諸王たちは平伏して「お慈悲を!」と言う。ひれ伏す九弓の中で頭を上げる者は一人もいない。テヘヌー(リビア)の国は荒廃し、ハッティ(ヒッタイト)の国は平和に立ち戻り、カナンは喘ぎ苦しむほどに略奪された。アシュケロンは占領された。ゲゼルの地は掠奪され、ヤノアムは無人となった。イスラエルは滅ぼされて、その種(子孫)は絶えた。フルはエジプトによって寡婦とされた。
 すべての国は統合され、平和に立ちもどった。不穏であった者のすべては、ラー神御自身のように日毎に命を更新するメルエンプタハにより鎮圧された。

 つまり、戦勝碑の主張するところに従えば、海の民とリビアの連合軍による下エジプト侵攻が撃破されたばかりか、逆にリビア本国まで征服され、さらにはヒッタイトに与して敵対行動を採っていたカナン・シリア方面の諸勢力も平定された、というのだ。
 エジプトに敵対する伝統的敵対国である九ヶ国の王たち(九弓と表現される)は今や平伏して慈悲を乞い、昂然と頭を上げて敵対的態度を示す者は一人もいない、と謳っているが、九弓が具体的にどの国を指すのか不明である。この「メルエンプタハ戦勝碑」の冒頭部分においても、「九弓を討ち滅ぼす力強い雄牛の武名は永遠に轟きわたるだろう」とメルエンプタハを称賛しているから、九弓に対する征討事業がファラオ称賛の常套句になっていたとも考えられる。
 したがって、以下に列挙されている地域・都市国家・民族に対する勝利も、実際の軍事遠征の成果であるのか、それともファラオ称賛のための単なる修辞であるのか、判断するのは難しい。先に「シリア方面への遠征の痕跡がある」と慎重を期して書いたのは、このためである。
 確かにエジプト王が建てた戦勝碑を歴史的史料と見なすことには危険が伴うのではあるが、何かしらの歴史的事実を反映していると考えることもできる。すなわち、エジプトに対しシリア・カナン地域が敵対的行動に奔ったことがあるのは歴史的事実であるから、戦勝碑に征討対象として挙げられても不思議ではない。
 いずれにせよ、エジプトの考古資料に「イスラエル」が登場するのはたった一ヶ所だけ、この「メルエンプタハ戦勝碑」だけなのである。貴重な歴史的価値のあることは誰しもが認めるところながら、その解釈をめぐっては発見者フリンダース・ピートリー以来、議論百出の観がある。
 いま私の手元にあるジェイムズ・B・プリチャード編『古代近東旧約聖書関連資料集』(プリンストン大学出版局、初版一九五〇、第三版一九六九年刊)の注釈では、次のように解説されている。

 この部分に登場する地域・都市・民族の名前の中で、唯一「イスラエル」だけが地域名を表わす限定詞ではなく民族名を表わす限定詞を伴って表記されているという事実に対しては、これまでに多くの研究が行なわれてきた。したがってわれわれは、「イスラエルの子ら」がパレスティナの地に、あるいはその近辺にいたことを推定してもよいが、しかしまだ定着した民族としてではないことを忘れてはならない。このことは、いわゆる「カナン征服」の年代に重大な関係をもつだろう。こうした議論は有効である。エジプト語における限定詞は当然ながら意味があるのであって、とりわけ同じ碑文の中で限定詞が使い分けられていることは、重要である。この戦勝碑においては、レブ(リビア)やテメ(リビアの一地域)、ハッティ(ヒッタイト)、アシュケロンなどには定着民族を表わす国名限定詞が付与されているのに対して、マジョイ(スーダン)やナウ、テクテンのような非定着集団には民族名限定詞が付与されている。
 このような議論は大いに結構だが、これで結論を下すというわけにはいかない。というのも、エジプト後期王朝の書記たちが不注意から間違いを犯すことは周知のことであり、さらにこの戦勝碑の碑文そのものに間違いがいくつもあるからである。
 碑文に「イスラエルの種、すなわち子孫は絶えた」と書かれているのは、この時代に特有の権力誇示の誇張表現である。(同書三七八頁)

 学者特有の慎重な言い回しを何とか判読してみると、問題の「イスラエルの子ら」がまだ定着以前の状態にあること、「イスラエルの子孫は絶えた」とあるのも事実ではなく誇張表現であること、を指摘していると言えよう。
 イスラエルと同じく民族限定詞を付与され非定着集団と見なされた三民族は先に引用した結語部分には登場していないが、その直前の節に「マジョイは体を伸ばして眠り、ナウとテクテンは平原の好きなところにいる」と記されている。注釈で、「マジョイ」には警察隊として編成されたスーダン人、「ナウ」と「テクテン」は辺境前線の警備兵という説明がある。おそらくは、上エジプトよりさらに奥地のヌビアやスーダンからの被征服民族を帝国内部組織に組み入れて警察や国境警備などの任務に就かせたのだろう。いずれも、その職掌から一ヶ所に定住することができない人々であった。イスラエルはこうしたエジプト帝国に組みこまれた異民族集団と同じく非定住民族集団と見なされたのである。
 しかし、イスラエルはエジプト帝国の組織の一部である警察隊や国境警備兵として挙げられているのではなく、征服された敵対的異民族を列挙した中に登場している。これは何を意味するのか。
 以前に、アテン一神教徒たちはエジプトとヒッタイトの覇権対峙の最前線であるカナンの地に屯田兵として追放されたのではないか、と書いたことがある。その彼らが今やエジプトに敵対する勢力の一つとして数えられているのである。
 エジプトからの追放がアイ王(在位紀前一三三一〜一三二六)の下で行なわれたのだとすると、メルエンプタハ王五年(紀前一二〇八)までほぼ一二〇年が経過している。これだけの年月が経過してもなお定着できなかったということは、その運命がいかに苛酷であったかを物語っている。エジプトの覇権がカナンの地に行き渡らず、その庇護を期待できないとなれば、独自に生きていくほかはない。定着できる根拠地をもたないで生活するとは、自らを養う農耕地をもたない浮浪漂白の生活をすることを意味する。すなわちそれは、持てる者からの強盗略奪により生きることである。イスラエルがこの時代に跳梁跋扈した強盗略奪集団のアピルやイビルの一党と見なされたのも無理はない。

●海の民の大規模侵攻第二波
 さて、メルエンプタハ王五年(紀前一二〇八)に建てられた戦勝碑の一つ「大カルナック碑」に記されたものが海の民の侵攻を伝えるもっとも初期の記録であるが、それからほぼ二〇年後のエジプト第二〇王朝二代目ラムセス三世(在位紀前一一八二〜一一五一)の治世第八年(紀前一一七四)にも、海の民による大がかりな侵攻のあったことが記録されている。
 テーベにあるラムセス三世の葬祭殿「メディネト・ハブ」の碑文については一九二四年以来シカゴ大学が研究を行なっている。海の民に関する記録は最初の調査報告書『メディネト・ハブ碑文調査第一集 ─ ラムセス三世初期歴史的記録』(一九三〇)の中に収録されているが、海の民に関する記述の冒頭の部分はこう始まっている。

 (ラムセス三世)陛下の第八年……、異邦人どもは彼らの島々において陰謀を凝らした。まったく突如として諸国は騒擾のうちに地上から抹殺され壊滅させられた。ハッティ(ヒッタイト)やコデ(アナトリア半島南東部にあったキズワトナ)、カルケミシュ、アルザワ(アナトリア半島南西部)からアラシア(キプロス島)にいたるまで、彼らの武器を前にして立ちはだかる国はどこにもなかった。一瞬にして息の根を止められた。アムルの地(シリア北部)にあった駐屯地、彼らはそこの人々を殲滅し、アムルの国はさながら存在しなかったかのように廃墟と化した。彼らは怒濤のようにエジプトまで攻め寄せたが、その前に猛火が待ち受けていた。彼らはペリシェト人、チェケル人、シェケレシュ人、デニエン人、ウェシェシュ人の諸国が集まり同盟軍を結成していた。

 上に挙げられた海の民同盟軍を構成する諸民族の中で、シェケレシュ人を除いてはメルエンプタハ戦勝碑に登場していない新顔である。
 このうちで、ペリシェト人はユダヤ伝承に出てくる敵対勢力「ペリシテ人」と同じである。今日でもカナンの地域を「パレスティナ」と呼ぶのは、このペリシェト人の土地という意味に由来している。ペリシェト人については、ギリシアのミケーネ文明を担った人々との関連を説く学者もあるが、多くの問題がある。(つづく)★
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2016年01月19日

突厥・ハザール興亡史論 3 バアル信仰と海の民


十二支族考 索引

http://michi01.com/tendoh/355isl26720301.html                     

 突厥・ハザール興亡史論 3 バアル信仰と海の民
        (世界戦略情報「みち」皇紀2672(平成24)年3月1日第355号)


●正統南王国と雑種北王国の対立
 わずかに降る天水を頼りに荒蕪の地を切り拓いて耕すことからイスラエルのカナン定着は始まった。ところが、それは同時に、すでに先住の諸民族が生活している中に侵入することだった。そこに軋轢が起こるのは当然である。ユダヤ伝承『士師記』でもカナン侵入の初期にはアラム人やモアブ人の王に支配されたことが記されている。
 エジプト帝国の覇権が広く行き渡っている時代ならば、その傘の下に庇護されることも期待できたであろうが、エジプトはアマルナ時代に対外関係をまったく無視したエジプト版モンロー主義を採ったため、前庭ともいうべきカナンの地域までも新興ヒッタイトの勢力が伸張してきていた。
 諸候国が新旧覇権のどちらに付こうかと右往左往する間隙を突いて、強盗殺戮を専らとするならず者集団が各地に跳梁跋扈する時代だったのだ。そんな危険地帯に追放されたイスラエル人たちが生き延びるには、彼ら自身もまた強盗殺戮の徒となるほかなかった。「川を越えてやってきた人々」という意味の「ハビル」「アピル」「アビル」「イビル」「イブリ」などとイスラエル人は呼ばれたのだが、要するに、「新手のならず者たち」と見なされたということである。
 このカナン定着時代にイスラエルを率いた軍事的宗教的指導者が「士師」(しし、和訓で「さばきつかさ」)と呼ばれている。英雄的な士師が現われイスラエルを勝利に導いても長くは続かず、すぐまた他民族の支配の下で奴隷として呻吟するという苦難が続いた。そして、イスラエル内部の部族対立も繰り返された。
 ユダヤ伝承ではあたかも士師の時代にイスラエルがすでに十二支族に分かれていたかのように書かれている。イスラエル十二支族とは、始祖アブラハムの孫である父祖ヤコブが神に「イスラエル」と名乗りなさいと言われたことから、ヤコブの息子一二人をそれぞれ族祖とすると一般には考えられているが、事はそれほど単純ではない。
 まず、ヤコブがラバンの長女レアによって得た息子は六人。

  @ルベン
  Aシメオン
  Bレビ
  Cユダ
  Dイッサカル
  Eゼブルン

 次に次女ラケルの下女ビルハが産んだヤコブの息子は二人である。

  Fダン
  Gナフタリ

 長女レアの下女ジルバがヤコブに産んだ息子たちは二人。

  Hガド
  Iアシェル

 次女ラケルが産んだのは二人。

  Jヨセフ
  Kベニヤミン

 つまり、ヤコブは四人の女から一二人の息子(と娘一人)を得たのだが、祭司を専門職としたというBレビ族はイスラエル十二支族には含まれない。さらに、Jヨセフも大活躍の伝承を有するにも拘わらず、十二支族の族祖とは見なされない。ヨセフがエジプトの祭司ポティ・フェラの娘アセテナに産ませた二人の息子

  Lエフライム
  Mマナセ

が族祖となっている。
 すなわち、イスラエル十二支族とは、BレビとJヨセフとを除いたヤコブ(イスラエル)の息子一〇人と孫二人を族祖とするのである。十二支族それぞれにはカナンに「割当地」があったとされているが、祭司を専門職としたレビ族は割当地をもたなかった。つまりレビ族は「その他大勢の雑多な人々」と異なる特別な存在だと見なされたのである。アテン一神教における祭司神官階級がエジプト王族から構成されて、特別な人々と見なされたことの名残であろう。
 名前そのものから考えると、アテン一神教の聖地アケトアテンでの王族=祭司階級は「ヤフウド」と呼ばれていたのであるから、「ユダ」(Yehuda)族こそがヤフウドの直系祭司族であると思われるが、エジプト帝国という経済基盤を喪った一神教徒たちは大規模な祭司階級を抱える余裕を持てなくなり、ごく少数の祭司専門職を各部族に配当して祭祀を司ることとしたのである。これがレビ族である。レビもユダも、下女からではなく正式の妻から産まれた息子すなわち正嫡子とされ、しかもレビが兄であるとなっているのは、カナンに定着する過程で「ヤフウド」の中のさらに選りすぐりの者たちが祭祀専門階級を形成したことを伝えているのである。
 後に統一王国が北王国イスラエルと南王国ユダに分かれたとき、十二支族の内の十支族が北王国に、二支族が南王国に属することになる。だが実際には、南王国が祭司職のレビ族を擁していた。南北両王国時代のユダヤ伝承は『烈王記』として纏められているが、「その他大勢の雑多な人々」からなる北王国ではしばしば一神教から離れてカナンの土着信仰であるバアル神への信仰に王族までもが染まったと繰り返し非難されている。一神教を堅持する南王国とバアル信仰へと堕落する北王国という対比は、『烈王記』を貫く基本テーマであると言ってよい。
 南王国ユダを構成するレビ族、ユダ族、ベニヤミン族がいずれもラバンの娘から産まれた正嫡子たる息子を族祖とするのに対し、その下女から産まれた庶出の四支族がすべて北王国に属するのも、「ヤフウド」を中核とする南王国が、「その他大勢の雑多な人々」からなる北王国を低く見ていたことの表われである。

●バアル信仰と海の民が敵となる
その一神教信仰ゆえにエジプトから強制国外追放を喰らったイスラエルはカナンの土着信仰であるバアル信仰を目の敵にして、北王国のバアル信仰への転換を信仰の堕落として口を極めて罵っている。だがむしろ、一神教こそがエジプト帝国の繁栄から生み出された古代世界の異端児であって、それまでの世界に例を見なかった宗教的な突然変異ともいうべき変種なのである。
 一方、バアル神はわが国の素戔嗚尊やインド神話におけるインドラ神にも比すべき、人類共通の普遍的な神格であり、雷霆・暴風・慈雨を司るという属性も共通する。バアルによる悪龍神ヤム・ナハル退治の物語は、わが出雲神話における素戔嗚尊の八岐大蛇退治の物語と同じく、バアル神話の重要な部分である。
 カナンからレバノン、シリアの各地にバアルのための神殿が数多く建立されていた。つまりイスラエルのカナン定着に先立つ遙か以前からバアル神はカナン・シリア・レバノン地域一帯にかけて広く信仰されていたのである。
 一九二八年に発見されたウガリット遺跡からは夥しい量の楔形文書が発見された。その解読が進むにつれ、紀前一六世紀から一三世紀にかけて繁栄を謳歌したにも拘わらず永く忘れられていた古代都市国家ウガリットの存在が明らかになってきた。ウガリットの町は小高い丘の上に建造されていたが、丘の頂上に建立されたのがバアル神殿とバアルの父ともされるダゴンの神殿だった。
 後にはバアルもダゴンもユダヤ教やそこから派生したキリスト教において禍々しい悪魔として忌み嫌われるが、一神教という特殊な色眼鏡を掛けて眺めたのでは、古代世界の本当の姿が歪められてしまう。
 ちなみに、古代都市国家ウガリットを滅亡させたのは紀前一二〇〇年ころレパント一帯(地中海東部沿岸地域)を荒らし回って多くの古代都市国家を灰燼に帰せしめた「海の民」の侵攻・破壊によるものとされている。その正確な年代は定かではないが、エジプト新王国第一九王朝第四代のファラオであるメルエンプタハ(紀前一二一二〜一二〇二)の時代には確かに存在し、第二〇王朝第二代ファラオのラムセス三世(紀前一一八二〜一一五一ころ)の治世八年目(紀前一一七四年ころ)には滅び去っていたとされるので、紀前一二〇〇年から数年の内に、長くても十数年の間に滅亡したものと考えられる。
 謎の民族集団「海の民」による侵攻破壊は、ヨーロッパ中世初期において英仏を征服、地中海に入ってシチリア王国を建て、東ローマ帝国を脅かしたノルマン人の猛威に勝るとも劣るまい。「海の民」は自ら記録を残さなかったうえ、彼らに関する記録もわずかしかない。その一つがメルエンプタハ五年(紀前一二〇八)に建てられた戦勝碑である。エジプトに対する侵攻に際し「海の民」はリビア人と連合していた。「陛下がリビアの国で成し遂げた勝利」と題された戦勝碑には「アカワシャ人、トゥルシャ人、ルッカ人、シルダーヌ人、シェケレシュ人、北方人が全ての国から押し寄せた」と記され、「北方人」(リビア人)と共に「海の民」を構成する主要集団として五民族が挙げられている。その五民族は以下のように比定されている。

  アカワシャ人=アカイア人
  トゥルシャ人=エトルリア人
  ルッカ人=小アジア南西部リュキア人
  シルダーヌ人=サルデニア人
  シェケレシュ人=シチリア人

 これによれば、サルディーニア島、シチリア島、イタリア半島、さらには小アジア沿岸地域、さらにはギリシアを含む地中海全域からの集団が「海の民」を構成していたことが分かる。
 彼らは突如として歴史に登場したのではなく、例えば、紀前一二八六年にヒッタイトとエジプトの間で戦われたカデシュの戦いでは「ルッカ人」や「シルダーヌ人」を両陣営とも傭兵部隊として傭っていたことが記録されている。また、ウガリット遺跡では多くの個人の墓が発掘されているが、その副葬品から判断すると、キプロス島やクレタ島、ミュケーナイなどエーゲ海周辺域からの出身者もウガリットには住んでいたと考えられる。
 つまり、ある時点まで平和裡に共存共住していた地中海諸島出身者たちがある時に突如として武装侵攻集団と化し襲撃してきたというのが実情だろう。
 戦勝碑にはファラオが敵兵六〇〇〇人を殺し捕虜九〇〇〇人を得たと記されているが、捕虜となった戦闘部隊を傭兵集団として活用することは古今に通じる帝国の狡知であり、カナン定着後のイスラエル部族連合にとって最大の敵となる「ペリシテ人」とは侵略戦争の終結後にエジプトの傭兵となってカナンに居座った海の民の一派であった。(つづく)★
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2016年01月18日

突厥・ハザール興亡史論 2 選民から神の選民へ


十二支族考 索引
http://michi01.com/tendoh/354isl26720215.html
                      
  突厥・ハザール興亡史論 2 選民から神の選民へ
        (世界戦略情報「みち」皇紀2672(平成24)年2月15日第354号)


●エジプトから追放されたユダヤ人
 神によって選ばれた民であることを自称するユダヤ人たちはその民族名を、「エル」(神)と「イスラー」(競う)者であると解釈して(創世記32・28)、自ら「イスラエル」民族と称してきた。
 だが、先に述べたように、フランスのトロアに生まれてモーセ五書およびタルムード両方に精細な注釈を施した中世の大注釈家ラシ(ラビ・シュロモ・イツハキ、一〇四〇〜一一〇五)によれば、イスラエルとは「種々雑多な人々、改宗した民族の集合体」であるとされている。すなわち、先祖伝来の宗教に従うことを鑑とした古代社会にあって彼らイスラエルは、容易に信仰する神を変える軽佻浮薄の徒であって、依るべき祖国を自ら放棄した国際的な根無し草と見なされたのである。ここ古代エジプトのアケトアテンの地こそが、コスモポリタン誕生の地であったのだ。
 ユダヤ聖典解釈の基礎を打ち立てたとして尊敬されるユダヤ教の大碩学であるラシの注釈に従えば、神に選ばれた特別の民であるユダヤ人に神自身によってカナンの地を中心にナイルからユフラテ(ユーフラテス)までの広大な領土を与えられたのだと称しユダヤ人の源郷たる国家のイスラエルを建設したことが、いかに無理難題をあえてゴリ押しした暴挙であったかが、はっきり分かるのである。
 それは当該地における多民族による永年の伝統的生活実態も歴史的な事実もまったく無視する、独善的な選民思想による一方的な横暴であった。もとより、領土争奪が係争地の人々の暮らしを踏み躙るのは常のことであって、稀有の才覚と統率力により従来の歴史的な事実にない新たな支配を樹立することは建国創業者の英雄的勲功とも讃えられる。だが、イスラエルの場合は自ら武力によって建国したのではなく、米英に寄生して、これを暗々裡に使嗾することによって、いわば無から有を生ぜしめたのだ。
 そして、ユダヤ人たちが掲げたその建国の大義たるや、神がその選民に対して与えた約束という根拠しかないのである。その神とはユダヤ人たちだけが独占的に奉じる神であって、排他的な嫉妬深い神だと彼ら自身称するのであるから、他民族にとってはまったく与り知らぬ神である。その神が約束したのだとユダヤ人が言い募っても、他の人々にとっては「それがどうした」と言って済ませばそれでよいはずの、たわごとにすぎなかった。ところが、ユダヤ人の源郷たる国家イスラエルは現実に建国された。ユダヤ人の永年の夢が実現したのである。
 常識的に言うならば、それは古今に未曽有の暴挙であるが、これを謀略というならば、それはかつてなかったほどの「見事な」謀略というほかないのではある。
 だが、見事なまでの謀略を縦に(ほしいまま)して建国したイスラエルという国家が今や亡国の淵に瀕している。四年前の統計だが、人口七〇〇万人あまり(世界第九九位)、GDPでは二〇〇〇億ドル(世界第五〇位)という小規模国家の運命がどうなろうと世界の大勢に影響はないはずだが、現実にはそうでない。
 世界中で総人口が一三〇〇万人とも一四〇〇万人ともいわれるユダヤ人のうち、イスラエルに在住する人口が約五三〇万人、米国にほぼ同数の人口がいるとされ、欧州各国に数十万人単位で在住するほか、両米大陸にもアジアにもユダヤ人のいない所はないと言われるほど、世界中に散らばって住んでいる。その世界中のユダヤ人が集ってイスラエルに住んだとしても、総人口からするとカンボジアとザンビアの間くらいで、小規模国家であることに変わりはない。
 だが、ごく少数のユダヤ人が世界の富と利権の大半を握って世界各国の政治経済を牛耳り、彼等の絶大な支援を受けて建国されたイスラエル国家は大富豪ユダヤ人による世界戦略の隠蓑として利用活用されているという現実がある。だから、イスラエルという国家の存続は単なる小規模国家の問題ではなく、世界中の大勢に影響を与える火種となりうる。
 さて、聖都アケトアテンにおいて、イスラエル(アテン一神教に改宗した種々雑多な民族からなる人々)たちは大預言者たるアクエンアテン王の庇護の下で恵み深いアテン神の光線に浴し、さながら楽園にあるかのような幸福を満喫していたが、今や神父アイは自らファラオとなり、エジプト疲弊の元凶となっているイスラエルと、あくまでアテン信仰を捨てない王族神官たちの国外追放を決意した。
 当初より、アテン一神教の信者には二種類の人々がいたのだ。エジプトの王族に属する神官たちと、その他大勢の種々雑多な人々である。彼らは共にエジプトから追放された。
 アイ王によって彼らの国外退去を監督するように護送を委ねられたのが、二人の軍司令官である。前軍司令官のホルエムヘブ(アイ王の下で宰相)と現軍総司令官ラメスウであった。この軍人二人が「出エジプト記」においてユダヤ人を指導するアロンとモーセとして描かれている。つまり、ユダヤ人のエジプト追放を監督した二人の将軍のうち、ホルエムヘブがアロンとなり、ラメスウがモーセとしてユダヤ伝承では歪曲されている。そして、彼らは二人とも後にファラオに就任している。高齢のため在位わずか四年ほどで死去したアイ王の跡を継いでホルエムヘブ(在位紀前一三二六〜一二九九)が王に即位するが、アイの娘ムトネジメトと結婚し王位継承資格を得たものの、その三〇年にわたる治世の間に嗣子を儲けることができなかったため、彼が新王国第一八王朝に幕を引く最後の王となる。
 その跡をラメウス将軍(ホルエムヘブ時代に宰相)が継承するが、彼は第一九王朝と区分される新時代を開き、その初代の王ラメセス一世(在位紀前一二九九〜九七)となるも、その治世はやはり高齢であったのでごく短い。
 アイ王の後継者である彼らが、特にホルエムヘブ王がエジプトの歴史から一神教の誕生とその短い黄金時代たるアマルナ宗教改革時代の一切の痕跡を抹消した張本人である。エジプト歴代の王の名前を列記した「王名表」からは、アメンヘテプ四世(アクエンアテン)よりアイに至る新王国第一八王朝四代の王名が削られて消えている。すなわち、アメンヘテプ三世の次にホルエムヘブがファラオとなったかのように王名表が改竄されているのである。

●国外追放された賎民から神の選民へ
 これはイスラエルたちにとって重要な意味をもった。つまり有り体に言えば、彼らを産んだ親が育てることを拒否したばかりか地の果てに彼らを捨てて、剰えわが子の誕生記録自体を抹消するということを行なったのである。これではまるで、堕ちる所まで堕ちてしまった現代日本の子殺し事件や子供遺棄事件さながらではないか。
 だが逆に言えば、出生記録まで抹消されたイスラエルたちにしてみれば、自らの出自を勝手に創作できるという無制限の自由を得たことを意味する。いかに粉飾しようとバレる心配はないのである。かくて、カナンの地に流刑となったのち漸く国家の態を為すに至ったダビデおよびソロモンの時代にはまだエジプトの威光を尊重する旧習から抜けきっていなかったが、バビロンに強制連行された後は、故郷エジプトへの思慕はむしろ害となり、生き延びるためには郷愁を忘れ果てることこそが得策となった。
 ユダヤ人の伝承において、なにゆえにカルデアの町ウルが父祖アブラムの故郷とされたのかの背景には、一神教誕生の地として間違ってもエジプトを持ち出すわけには行かない深い事情があったのだ。
 たとえ嘘で塗り固められたデッチ上げであったとしても、イスラエルたちは完全にエジプトを忘れ去ることはできなかった。民族の始まりを語るには「創世記」だけでは不足だったのだ。どうしても「出エジプト記」が必要であった。その信仰ゆえに忌むべき者と蔑まれ追放されたイスラエルたちは、その信仰ゆえに神に選ばれ信仰を守るためにエジプト人たちを皆殺しにして脱出してきたのだと、民族の記憶を書き換える必要があった。ユダヤ人の伝承に一貫して流れているのはエジプトに対する激越なまでの愛慕と憎悪とであるが、以上のような事情を踏まえてみれば、彼らを襲った悲劇と共にその愛憎のほども、少しは理解できるような気がする。
 「イスラエル」とは古代社会において前代未聞の新興宗教信者に対する集団名称であったが、これを彼らは「神」(エル)とさえ「競う」(イスラ)者と解して自らの出自を湖塗した。また、ヘブライ人の「ヘブライ」とは、河を「超えてやって来る」余所者を意味したが、なぜ態々遠くからやって来るのかといえば、強盗略奪殺戮を恣にするためであって、その原形「ヒブル」と「イブリ」はアマルナ文書に頻出するならず者集団「ハビル」「アビル」とは同じ根から出た同義語である。
 エジプトから追放されたイスラエルたちは、明らかにナイル河という川を「越えてやって来た」人々であったのだが、また史実を湖塗しヘブライ人とはユフラテ河を超えてやって来たのだとされる。
 イスラエルはヒッタイトと対峙する最前線基地があったガザのさらに前方のカナンに、いわば屯田兵のような形で追放されたのだが、その荒蕪の地をイスラエルたちは聖都アケトアテンを懐かしがりながら「乳と蜜の流れる」理想の楽園として描いている。神の約束の地が戦闘と殺戮の絶え間ない荒蕪の地であることには、さすがに絶えられなかったからであろう。
 いわゆるモーセ五書と総称されているユダヤ伝承が纏められたのはカナンからさらに強制連行されたバビロンにおいてであった。彼らを強制連行した新バビロニアはやがて滅び、すぐにもカナンに戻してもらえるだろうと楽観論を吹聴する多くの預言者たちの中で、エレミアとエゼキエルだけが戒めの言葉を説きつづけた。そのエレミアが民族の伝承を捻曲げた書記たちを糾弾している。

 どうしてお前たちは言えようか、「我々は賢者と言われる者で、主の律法を持っている」と。
 まことに見よ、書記が偽る筆をもって書き、それを偽りとしたのだ。

 かくて国外追放された賎民たちが、「神の選民」となったのだった。 (つづく)★
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